必然を起こす

この練習には色んな意味を与えていますが、今回はチェックフックに論点を絞ります。
チェックフックを導く前提をざっくりと以下のように仮定しています。
1.手打ち
2.大腰筋の収縮
3.二軸
足を止めてはいけない、という制約を設けることが、手打ち能力の向上を偶有(論理的に包含)している、と仮定しています。


2大腰筋の収縮で頭を遠ざけながら、は下方向へフックを打つ、という制約が偶有していると仮定しています。
「下を殴る」ではなく「下方向へのフック」ですので、注意が必要です。下方向へフックを打つ為には頭を遠ざけて(≒大腰筋収縮)腕をスイングする必要があります。

大腰筋収縮による胸椎側屈
「足を動かしながら」かつ「下へのフック」という制約のもとで前方を殴ろうとすることは、模式図の形が偶有されています。
他にも、「突っ立ったまま(≒頭を突っ込まず)ボディーを手打ち」、でも長岡のようなチェックフックが再現される確率は高いと思います。
サンドバッグなどで試してみてください。動きながら頭を突っ込まずに下へフックです。



二軸及び肩甲骨平面での腕の加速も、動きながら下へのフックに偶有されていると仮定しています。
「こうかもしれない」
このブログては再三繰り返していますが、「こうだ」と決めつけることはバカの態度です。
以上はあくまでも「こうかもしれない」との仮定です。実験を繰り返すことで長岡の得意不得意、ないしはボクシング空間の地形を明らかにすることに主眼を置いています。
分かりやすく言えば仮説⇆実験サイクルのルーブ。
試行錯誤の過程で、徐々にボクシング空間の地形を明らかにできます。
具体的に例えるなら、箱の中を手探りしてその内容を明らかにするゲームです。
天才か幸運に恵まれでもしない限りは、未知の暗闇を闇雲に走ると大怪我をします。それは自殺と言えるかもしれません。
論理的には、A→B、C→D、D→Eと、入出力の規則を明らかにすることです。
音の反響から地形を分析する、と言えば分かりやすいかもしれません。
ボクシング技術という、視認できない論理的な空間に音を反響させて、その構造を予想するわけです。
ボクシングの場合の音は練習です。
練習(入力)とそれに反射する動作(出力)の規則性を元に、より効率的な練習を導きます。
労力がかかる、かつ進行は徐々にではありますが、根気強くやれば、確実にボクシング技術空間の地形を明らかにし、目的地までの近道の予測が立てられます。
一流と三流の骨格や動作の差を比較し、その差の原因を特定しようする過程で、腸腰筋や前鋸筋、小胸筋という近道が現れたようなこと。
凡人が天才を超えるにはこのサイクルを高速でぶん回すしかありません。
何故上手くならないか

生来的に強くなる前提を与えられている天才でもない限りは、物事を向上させるには上のサイクルに頼らざるを得ないと思います。
論理的な妥当性を検証する思考の枠組みを持たない場合は、ボクシングに限らず何も上手くいかないと考えられます。すなわち人生が上手くいきません。
思考の枠組みを作ってしまえば、ある程度ならば”形式的に”真理に近づけます。
それは、その思考の枠組みそのものが妥当であるかの検証もしてくれます。
むしろ、これがないと何をもって価値や意味とするのかの議論ができず、感情論に終始することとなり、改善が起こりません。
例えば、僕の技術論の妥当性を評価できないなら、仮に僕が間違えていた場合は、あなたは人生をドブに捨て続けることになります。
結論。上手くならないのは、思考の枠組みがなく、場当たり的な対処で問題を上積みしているから。
因果関係を追跡する

思考のフレームワークとして、因果関係を明らかにする、という態度は有用です。
「サウスポーと戦う場合は相手の外側へ」という命題に対してはいくらでも反例があります。パッキャオは典型。
論理的には上の命題は誤りです。

しかし、思考の枠組みを持たないバカは「天才」という、そいつにも説明不能な概念を感情的に創造することで、その例外を処理します。
「大振りはダメ」「ガードを下げるな」「顎を上げるな」もそう。タイソンやパッキャオ、井上尚弥など、いくらでも反例を挙げられます。むしろ偉大な選手ほどルールには従っていません。なんなら基本に忠実に従う偉大なボクサーなんて見たことがない。
すなわち、所謂技術論は論理的には破綻しています。が、バカは例外は全て「天才」という概念で処理します。
こうなってしまうのは、ある命題が正しいことを検証する為のフレームワークがボクシングにはないからです。
それは「宗教裁判による魔女狩り」の余地を与えます。
そこら中で魔女狩りが行われていると見ることもできますね。
結論。バカにならない為の思考の枠組み。












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