「選択できたという事実」の採用
「『選択できた』という事実を数学界は採用した」
ルールが書けない、アルゴリズムも定義できない。ならばどうするか?
そこで現代数学(ZFC集合論)が下した決断が、まさに「ルール(手段)は「不問とする」、です。
ただただ『選択を完了した成果物(写像)』という事実だけを、初期値としてそこに存在するものと認める」と宣言をしたのです。
構成した!の限界
ヒトが「選択できた」と認識しているものは、その構成上は代数的か有理数的になってしまいます。
偉大な数学者達はそこが数学の限界にならないように整備しました。
前述のように
$\frac{1}{n}→x$
ヒトの有限の認識では「構成した」という直感した時点で代数的数か有理数に収束します。
これが直観主義の限界になります。
数学における直観主義(直観主義数学)とは、L.E.J.ブラウワーが提唱した、数学的対象は人間の心の中での構成によってのみ存在すると考える立場です。主な特徴として、排中律の否定、構成的証明の重視、存在の具体性が挙げられます。
Gemini
そもそもが、「代数的」、あるいは「構成的」であるとは、人間が「有限の記号、有限の手順、有限のルール」によって、その対象をピンポイントで指し示し、組み立てることができるという意味です。
人間が「あ、この要素を選択できたぞ!」と認識できるものは、100%この網に引っかかっているものです。
- どれほど複雑な数式を使おうとも、人間が頭で理解し、紙に書き、言葉で説明できるルール(アルゴリズム)である以上、それは本質的に「自然数の数(可算無限)」のバリエーションから抜け出すことができません。
人間が「認識して構成できる」というアプローチに固執し続ける限り、数学の領土はあの従順で規則的な「有理数や代数的な数(可算無限)の箱庭」の中に閉じ込められてしまうのです
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