人の社会構造
リスクを取れる人、取れない人
義務教育で学んだと思いますが。
端的に言うと経済は、リスクを取れる人がリスクを取りたくない人を使役する上手さを競うゲームです。
資本家が株式会社の所有者で、彼らが経営者を選び、経営者が従業員を選びます。最初にリスクを取るのは創業者や銀行、投資会社など。構造の下へ行けば行くほどリスクは小さくなりますが、得られるものも小さくなります。
この株式会社という仕組みこそが、社会が搾取を容認していることの証拠です。
だからこそ、個人にはリスクを取ることへの動機が生まれ、その集合となる社会が発展し豊かになります。極論、リスクを取る人だけが社会を発展させているので、彼らのある程度の搾取は許容されるべき必要悪なわけです。
身近な人たちを思い出してください。リスクをとって行動する人がそうでない人の利益を独占しているはずです。分かり易い例は投資。リスクを取れない人に利益なんてありません。
このような経済の暗黙の仕組みが目には見えない空気を作り出し、社会に影響を与えています。
そして所謂「正しさ」という檻はリスクをとりたくない人達の依存心から自然発生的に構築されています。
「正しさ」というマトリックス
檻を作り上げるのは、資本家の「労働者は言われたことだけして、金を稼いでくれさえすればいい、感情は要らない」という無自覚な思いや、労働者の「リスクを取らず、安全に暮らしたい。責任をとるのも波があるのも嫌だ」という無自覚な願望が作り出す空気です。
誰もこの檻を作っていない、と言うよりも全員が少しづつ手をとりあってそれを作り上げています。
教室や職場のいじめも同じ。
誰かが「あいつを虐めよう」と言い出すことより、「あいつはどんくさい」「あいつからは反撃を受けないから安全」「自分だけは虐められたくない」というような、その場にいる全員が発する無自覚の空気が、いつの間にか同調圧力を形成し残虐な虐めに発展していきます。
この議論の対象となる集合をジムや学級から日本、世界と広げていっても導かれる結論は同じです。
コロナの同調圧力が記憶に新たしいと思います。他にも第二次世界大戦、第一次世界大戦もそうだっただろうし、第三次世界大戦もきっとそうだろうと思います。
戦前、戦時の社会全体を支配していたであろう「正しさ」という同調圧力があったことは「非国民」という単語からも簡単に想像できます。
「正しさ」という観念を用いて、個人の最大の財産である意思や未来を、社会の上層にいる一部の権力者が搾取しました。ジムや会社、学校にも同じ搾取の構造はあるはずです。
奇妙なことはこの構造を作り上げる僕たちがそれに気がついていないこと。
僕たち個人が持つ、リスクを取ることを嫌う依存心が自らを、自らの目で、そして体験で確かめたわけではない「正しさ」の奴隷にしてしまっています。
誰かがそうなるよう仕組んでいるのではありません。僕たち一人一人の「リスク(責任)はとりたくない、だけど利益を誰かに守ってほしい」という都合のよい、子供染みた依存心がこの搾取の構造を作り上げています。
正しさの奴隷となり自我を失うことは搾取の対象となる行為で、不幸の始まりです。
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