ふと疑問に思ったことを考えてみます。
矛盾と恒真式の関係
「恒真式の否定(反対)は矛盾」という結論の正しさについて。
先に
T⇔A∨¬A
と定義します。
¬T→⊥(前提)
¬(A∨¬A)→⊥(恒真式)
¬¬(A∨¬A)∨⊥(→言い換え)
A∨¬A∨⊥(二重否定除去)
A∨¬A(矛盾除去)
T(恒真式)
(¬T→⊥)⇔T
「『恒真式の否定は矛盾である』という結論は恒真式」。
背理法と矛盾と恒真式
上を考えていたら
[A]
⊥
¬A
の背理法と矛盾の関係について。何故背理法が認められるのかが疑問が浮かびました。
((¬A→⊥)→A)→T(仮定)
((¬¬A∨⊥)→A)→T(→言い換え)
((A∨⊥)→A)→T(二重否定除去)
(¬(A∨⊥)∨A)→T(→言い換え)
¬(¬(A∨⊥)∨A)∨T(→言い換え)
¬((¬A∧¬⊥)∨A)∨T(ド・モルガンの法則)
¬(¬A∧¬⊥)∧¬A∨T(ド・モルガンの法則)
¬¬A∨¬¬⊥∧¬A∨T(ド・モルガンの法則)
A∨⊥∧¬A∨T(二重否定除去)
A∨¬A∧⊥∨T(交換法則)
T∧⊥∨T(恒真式)
(T∧⊥)∨T(結合法則)
⊥∨T(恒偽式)
T(恒真式)
((¬A→⊥)→A)→T⇔T
『「Aではないならば矛盾する」ならばAである。』という結論は常に正しい。
となるので、矛盾という概念を認めると背理法が認められるということでしょうか。
矛盾が先か背理法が先かという循環論法になりますが、なんとなく矛盾が先なのかなと。
推論規則を用いて議論をする場合、人の認識の限界としての矛盾=A∧¬Aはどうしても生じてきます。認識の限界を認めてしまうと、必然的に排中律などを定義する必要が出てきます。
この流れが自然に感じますので推論規則→矛盾かなと。
偶数+偶数ならば偶数は恒真式
∀y∈ℕ∀x∈ℕ(2x+2y)→∀y∈ℕ∀x∈ℕ(2(x+y))(仮定)
¬(∀y∈ℕ∀x∈ℕ(2x+2y))∨∀y∈ℕ∀x∈ℕ(2(x+y))(→言い換え)
¬(∀y∈ℕ∀x∈ℕ(2(x+y)))∨∀y∈ℕ∀x∈ℕ(2(x+y))(分配法則)
T
∀y∈ℕ∀x∈ℕ(2x+2y)→∀y∈ℕ∀x∈ℕ(2(x+y))⇔T
偶数+偶数ならば奇数は矛盾
[¬((∀y∈X∀x∈X(2x+2y)→¬(∀y∈X∀x∈X(2(x+y)))→⊥)](仮定)
¬(¬(∀y∈X∀x∈X(2x+2y)→¬(∀y∈X∀x∈X(2(x+y)))∨⊥)(→言い換え)
¬(¬¬(∀y∈X∀x∈X(2x+2y)∨¬(∀y∈X∀x∈X(2(x+y))))∨⊥)(→言い換え)
¬((∀y∈X∀x∈X(2x+2y)∨¬(∀y∈X∀x∈X(2(x+y))))∨⊥)(二重否定除去)
¬((∀y∈X∀x∈X(2(x+y))∨¬(∀y∈X∀x∈X(2(x+y))))∨⊥)(分配法則)
¬(∀y∈X∀x∈X(2(x+y))∧¬¬(∀y∈X∀x∈X(2(x+y))))∧¬⊥(ド・モルガンの法則)
¬(∀y∈X∀x∈X(2(x+y))∧(∀y∈X∀x∈X(2(x+y))))∧¬⊥(二重否定除去)
T∧¬T(恒真式)
T∧⊥(¬除去)
⊥(恒偽式)
∀y∈X∀x∈X(2x+2y)→¬(∀y∈X∀x∈X(2(x+y)))→⊥(背理法)
背理法により前提が解消され、結論が演繹されました。
∀y∈X∀x∈X(2x+2y)→¬(∀y∈X∀x∈X(2(x+y)))→⊥
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