恒真な心を目指す

メンタル股関節おじさんの勉強部屋

論理学が人の認識を抽象化し一般化させたものだとしたら、恒真式のようにどんな入力に対しても同じ出力を返す心を創れるのではないか?と思うようになりました。

どんな困難に対しても幸福と=で結ばれた動じることのない恒等な心。
これが悟りではないかとも思います。

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心の探求と幸せ

聖書や仏教を読むうちに何故、それが人類から要求されたのか、されているのかを理解できるようになってきました。宗教は即物的な価値観によって隠されてしまう、本当の安心や生きがいの見つけ方を教えています。

僕達が住むこの世界では人類が利用できる資源は限られています。

にも関わらず、僕たち人の欲望には際限がありません。無限の欲望に駆り立てられ、有限な資源を奪い合っています。もしこの仮定に誤りがないのなら、論理的に、即物的な社会では誰一人としてその欲望を満たすことはできず、不幸せなまま死んでゆきます。

救済の論理

インナーゲームやニーチェ、聖書、仏教を学び理解が深まるごとに、何故、天国や極楽が定義されているのかを理解できるようになってきました。

競争社会や経済的合理性、即物的な価値観に支配されていた頃には理解できませんでしたが、宗教の目的は天国や極楽といった概念によって死を肯定し他者を洗脳することではないのです。そのように悪用されてきた事実と宗教の存在意義は異なる問題であるため、切り離して理解する必要があります。

宗教は、限りある資源の不毛な奪い合いに精神を消耗させるのを辞め、好奇心や探求心という無限の資源により精神空間を満たしていく生き方を肯定しています。

キリスト教を批判したニーチェも結局のころは宗教がその信者に要求するのと同じような生き方を僕たちに要求しています。ニーチェが批判しているのはその哲学ではなく、それに群がり、それを隠れ蓑として義務と自由を放棄した人達。安い安心と快楽に溺れ、自らの真理を追求することを放棄した人達です。

恒真な心を目指す

宗教の意義は人々に困難に立ち向かう力を与えることです。仏教でもキリスト教でも信仰はなんでもいい。フローを信じてもいい。原始仏教ではブッダは「自らの神を信じよ」と解いています。僕はこれを「フロー(ありのままの姿)を信じろ!」と説いているのだと解釈しました。

あらゆる困難に対し常に同じ感情を返す心の論理的な構造が、恐らく仏教の言う悟りであり、心理学の言うフローです。心の論理的な構造として存在し、知性と努力、勇気により獲得できるのだと思います。

もしもあらゆる困難は僕の精神性を高め、悟りへと導く試練なのだと心の奥底から感じられる恒真な心の構造を手に入れたなら、僕の世界から困難は消えさります。

戦いにおいては恒等な心を手に入れるとは恐怖を超越することも意味します。恐れがなくなれば、僕のありのままは自然と達成されるはずです。

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瞑想のやり方

Die Hard – ダイ・ハード
この記事を書いた人

第41第東洋太平洋(OPBF)ウェルター級王者
元WBC世界同級34位
元WBO-AP同級3位
元角海老宝石ジム所属

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