エマヌエル・オーガスツのボクシングは哲学。

「哲学」は真実を求める最も根本的な学問。
全ての学問の祖先。
「真実を知りたい」という、ヒトの自然な欲求に根ざしている。
僕が哲学が好きなのは「なんで?」が好きだから。
「なんで?」が好きなのは、他人に支配されるのが嫌いだから。
自己表現
何故あなたはボクサーになりましたか。
きっと「自己表現」。
芸術家も学者も世界チャンピオンも。根本にはそれがあるはず。
この足場を失うと人は世の中に溢れる何かに支配されます。
誰かの「かっこよさ」誰かの「正しさ」。無自覚に。
こんなものの為にボクシングを始めたのでも、生きているのでもないはずなのに。

ボクシングジムに通うのも僕のブログを読むのも、あなたの”人生を費やす”行為です。
「正しさ」に従う道理はありません。
少なくとも、僕は他人に「こうあるべき」を押し付けて良い理由を探すことはできません。
「刑罰」は犯罪の完全な抑止力にはなりません。
極論、死を覚悟するなら何でもやれる。法律ですら個人の行動は縛れない。
極論の極論、他人に迷惑をかけてでも好きにやって好きに死ねば良い。
※推奨はしてない
ジムも常識も会長もトレーナーも僕も。
覚悟を決めたあなたを命令に従わせることはできない。あなたがそれに従う道理もない。
※極論

ですよね?
意地を張る覚悟がない奴は他人に支配される。それが人類のシステム。
無自覚にアルファの養分になるのがベータ。
フォローワー(ベータ)は思考停止する。科学的に。ヒトのシステムだから。
「なぜ?」を突き詰められないから誰かの奴隷になる。
「科学的に」「常識的に」「一般的に」…。奴隷の寝言。
ボクシングは判断の連続
ボクシングは判断の連続。
「なぜ生きるか?」「なぜボクシングをやるか?」「なぜ戦うか?」は根本的な問い。
これを探し出せていないボクサーは脆弱。困るとすぐに諦める。判断の足場がない。あるいは他人がそれ。
仮にボクシングが自己表現の手段なのだとしたら、他人の意見とは距離をおく必要がある。
トレーナーや会長、ジム、先輩、YouTubeなどとベタベタすべきではない。ボクサーには他人の表現活動に手を貸す暇はない。

判断の根拠
「上手くなりたい」余りYouTubeを徘徊。
信念がないからフラフラと他人の意見に流される。
結果的に上辺だけの知識で終わる。何も分からない。何も身につかない。
戦う≒他人を拒絶(≒否定)する
ボクシング≒戦い
「誰々さんが…」「会長が…」「ジムが…」。ボクサーから最も遠ざかる寝言。

執着心が目を曇らせる
エセボクサー「トレーナーのせいで..」「業界が…」「会長が…」「基礎基本が…」
ボクサー「自分でやればよくね?」「他人がどうとかは関係ねーよ」
結論。エマヌエル・オーガスツのボクシングは哲学。
「他人は関係ねーよ。俺は俺だ」「俺がなんとかしてやるから、お前らはあっちで見てろ」がボクサーの態度。


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