「俺が何とかしてやる」の集積がチームワーク

よもやま話メンタル

最近、進撃の巨人をアニメで見終わりました。
思想強め。攻殻機動隊とかニーチェのマッチョ思想が好きな方にはお勧めです。流行物は大嫌いな僕でもハマりました。かっこよさのモデルが沢山いるので子供の頃なら相当な影響を受けただろうと思います。

下の場面に色々凝縮されているというか。社会はこうでなければならないよなと感じる場面。

一人一人が目的の達成のみに没頭し、危険に陥る仲間に一瞥もくれず敵へ突進。それが結果的に敵の攻撃を分散させるチームワークを引き起こしています。

チームワークという現象は、「誰かが何とかしてくれるだろう」などと、参加者の全てがチームの他に少しも期待することなく、「この俺が何とかしてやる」という主体性を集積させた結果として引き起こされます。
公安九課荒巻の「スタンドプレーの結果として…」と同じ論理ですね。
これは子供の頃に見た初期のワンピースでも言われていたような気がします。父親が僕がワンピースを見ていた時に話していました。

「俺は俺の為すべきを為す、お前らもお前らの為すべきを為せ」
これがチームワークを演繹するスローガンです。
「チームワーク」が演繹するのは「堕落」。

「(自分以外の)みんなで力を合わせる」
という風に集団と個人の責任が混同され、無自覚に無責任化してしまいます。集団の中の全員がそう思ったら誰も動きません。
ソビエト連邦の崩壊が良い例。もしかしたら今の日本も。
この手の「みんなの為に」という、日本に溢れる堕落を演繹する思想は駆逐すべきと僕は思います。みんなの為に。

進撃の巨人のあらゆる場面に「主体性」という哲学がちらつくのは作者の潜在意識にそう刻まれているからで、その哲学から演繹される物語が人々を魅了しているのだと僕は考えてます。そもそも、主体的な「俺が何とかしてやる」という哲学でなければ自然は生かしておかない。大人の「他人に何とかしてもらおう」なんて、甘えた考えは許されません。
そんな甘えた人間がヒット作を生み出せるはずもない。ボクサーだって同じ。「俺が何とかしてやる」って美学、哲学を持つボクサーだけ、自然は存在を許します。

「会長が…」「業界が…」「トレーナーが…」この手の自分の責任を度外視した、子供のような依存心が日本のボクシング、引いては日本中に溢れていると僕は感じています。
ジムが嫌なら移籍すればいいし、トレーナーが気に食わないなら優れたトレーナーを探せばいい、妥協なく信じられるトレーナーがいないのなら本を買って自分でトレーナーをやればいい。海外へ行ってもいい。いくらでも手段はあります。自分でやれば終わる話を物陰に隠れてグダグダと繰り返している。

仕事が嫌ならやめればいい、起業でも相場でもリスクをとってやればいい。その為の道具は揃っていて、やらないのは「誰かになんとかしてほしい」と依存しているからです。

他人に期待して何かが変わったのは幼児まで。
ボクサーに要求されるのは
「この俺が何とかしてやる」
という強烈なマッチョ思想。

そして、その集積が臨界点を超えた時に全体を変える現象を起こします。

そもそも感情として、「誰かが何とかしてくれないかなあ」なんてダサくないですか。
「俺が何とかしてやる」って立ち上がれる男が本当にカッコいい男。僕はそう思います。

ところで進撃の巨人のキャラクターのハンジの死に様にも「役割を果たし、死すべき時に死す」という強烈な武士道を感じました。

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Die Hard – ダイ・ハード
この記事を書いた人

第41第東洋太平洋(OPBF)ウェルター級王者
元WBC世界同級34位
元WBO-AP同級3位
元角海老宝石ジム所属

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