「打とうとするな。打て!」

「パンチ」を打とうとすること、すなわち「パンチ」という先入観に囚われることは真のパンチを見失わせてしまう。
フック、アッパー、ストレート以外にもパンチの可能性はいくらでもある。既述の言葉に囚われてしまうことはボクサーの「パンチ」の可能性を失わせてしまう。
例えば所謂「基本」通りやろうとしたらハメドやパッキャオにはなれない。

変化を察知し、揺れ動きながら能動的にバランスを保つことが安定だとするなら、所謂「安定(≒静止)」を求める性質は、人を変化から脆弱にし、不安定にしてしまうと言い換えられる。
岩は激流(変化)に砕かれる。生き残るには砂のように流動的である必要がある。
「安定」と同様にフックアッパーストレートなどの所謂「パンチ」の先入観はボクサーに真のそれを見失わせてしまう。
「基礎基本」という先入観が真のボクシングを見失わせてしまう。
ブッダ「執着を捨てろ」
ブルース・リー「考えるな、感じろ」
などは、認識の原理の本質を突いている。


「父親(母親)」の形は時代や国、個々の家庭によって様々。こだわる必要なんてないもの。
にも関わらず、人は時に「父親(母親)はこれしかない」と思い込む。そして、その幻覚を理由に他人に襲いかかる。「父親(母親)はこうあるべきだ」と。
これがエージェント。誰しもがエージェントのポテンシャルを持つ。

「打った」事実がパンチ。
「正しく打とう」とするからパンチが打てない。「正しく生きよう」とするから生きた心地がしない。

「打とうとするな、打て」は、「事実を受容しなさい」と言い換えられる。
事実とは自分の性質のこと。僕は恐らく、学級や学校、会社など、集団に合わせるのが苦手。できなくはないが途中で負荷の大きさに音を上げてしまう。悩んだこともあったが、今は開き直っている。その性質は時に僕に富や機会、普通のとは異なる貴重な人間関係を運んで来てくれもするから。仮に僕が他人と同じようにできない自分を責め続けたら、何一つ楽しいことのない人生だったと思う。
正しく(他人と同じ様に)やろうとしたところで、生来的にで難しいかできないことはある。
短距離が苦手な奴は苦手。じっと読書するのが苦手な奴は苦手。
それがダメだと感じるのは、自分の欠点を受け入れようとしないからであり、社会がそう洗脳しているから。
「それは良くないことだ」と洗脳してくる自分と他人を拒絶し、「俺は俺。他人は他人だ。」と、欠点を含めて自分を受容すれば、他人の評価は自分の意思決定から大方排除される。
「打とうとするな」は他人の言う正しさだけが解ではないこと、「打て」は打ってしまった事実、あるいは「打ちたいと感じる事実」を素直に認めなさいということ。

他人の言う正しさに合わせて自分の正しさを曲げた「正しくやろう」は、見方を変えれば自分自身の否定。
それが人の自信を奪い自己喪失を起こさせる。人の不幸の源泉。
ところで、意思の力を信じる、信じたい人にはスタンド(≒意思の力≒魂)バトル漫画「ジョジョの奇妙な冒険」がオススメ。少年時代に出会った僕のバイブル。






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