人の認識の罠

よもやま話

僕がシコシコと独力で進めている数学カテゴリを見てくれている方なら、もしかしたら既に気がついているかもしれません。
※データを見る限り、このカテゴリにも二桁以上の読者がいる!

数学は人の認識です。
前提から結論までの論理構造の同値変形。

簡単に説明するために「幸せになる」につい考えます。

[幸せになる](前提)
なる=感じる(同値変形)
感じる=感情(同値変形)
感情=怒り、喜び、悲しみ(同値変形)
幸せになる→怒り、喜び、悲しみを感じる(→導入)

数学はより厳密に各々の概念や演算の規則を定義するので、上の演繹ではふわっとし過ぎていますが、なんとく大枠はイメージできると思います。
「幸せになる」という前提から変形を繰り返して「怒りや喜びなどの感情を味わう」ということが導けました。

感情を味わうことが幸せなのだと認識すれば、失敗を恐れる必要はないし、増してや挑戦を恐れる必要はどこにもなくなります。その時の感情こそが幸せなのだから。
逆に安定という精神の流れを緩やかにして何も感じなくさせることは、幸せとは程遠いのだと認識することもできます。

あくまでも今回の話の枠を掴むためなので、一旦この議論はここまでにします。

要点は前提を元に変形を繰り越して結論を求めていく、ということ。

では果たして社会はどうか。
まずはボクシングジム。

勝つために努力する(前提)
努力する(同値変形)
勝つために努力する→努力する(→導入)

努力する為に努力する。
同語反復という無意味な論理展開をしています。

本来ならば努力を分解して

努力=没頭体験
没頭体験=時間を忘れる体験
時間を忘れる体験=楽しい体験
楽しい体験=新鮮な刺激
努力=新鮮な刺激

詳しい前提の変形過程はフローの記事などで共有されてるだろつってことで、かなり端折りました。

何が言いたいかと言うと、前提の論理的な変形を繰り返すことで認識を変えている、ということです。

「新鮮な刺激を練習へ取り入れ続ける=努力」

我慢することではなく楽しい練習を考えること、探すことが努力なのだと、努力の認識が変化すれば努力の回転方向が根本から変化します。
しかし、あくまでも前提となる認識の同値変形を繰り返しただけなので、論理的な構造は変化していません。なので、当初の「努力する」という要求とは矛盾しない行動が起こるはずです。
当然、厳密さは乏しいのでさらなる変形を施す必要はあるでしょうが、認識が変化して行動の原動力が変化している、ということが重要です。

再び社会を俯瞰してみると。

民主主義の為の民主主義、平和のための平和、経済的合理の為の経済的合理、天才はパンチが強い、天才はスポーツが上手い、などなど同語反復的な論理展開が溢れています。
上で説明したように無意味です。
無意味な論理展開にみんなで引きずられるから狂っていくのではないかと、僕は感じてしまいます。

例えば人の認識として、どんな前提なら天才という現象を引き起こすのか?を考えなければならないし、平和を引き起こす為にはどんな前提が必要なのか?を理解して揃えなければなりません。どんな前提なら経済的合理が出現するのか。

現状は平和の為の平和、経済的合理の為の経済的合理、練習の為の練習、となっているように思えてなりません。

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Die Hard – ダイ・ハード
この記事を書いた人

第41第東洋太平洋(OPBF)ウェルター級王者
元WBC世界同級34位
元WBO-AP同級3位
元角海老宝石ジム所属

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