何が社会と個人の腐敗を招くかの長濱説。
現象は流動的
「現象は流動的である」という前提があります。
ボクシングというスポーツには形はありません。本来は戦う相手との状況に応じて、そしてボクシングという世界の環境に応じて変化していくものであるはずです。
しかし、人の認識は現象を概念として固定して考えます。というか、それ以外の思考方法を知りません。つまり、本来は流動的な現象を無理やり固定して認識しまうという原理的な脆弱さを抱えているわけです。その最たるものが矛盾という概念です。対立を導いてきます。
本来は変化するはずのガードの位置やパンチの打ち方を人の認識は「こうあるべき」に固定してしまいます。
これは言語というシステムの原理であり脆弱性です。この世の本質が言語で表せる保証はありません。が、人は言語以外の表現方法を知りません。
加えて現象を概念として固定(言語化)してしまうと、それはその瞬間から特権の温床となります。
概念を固定して特権の源泉が出来上がれば、次に起こるのはその特権を守る為のルールの整備です。基礎基本という特権を守る為の反復練習の価値感と言うと分かりやすいと思います。
例えば基礎基本は指導側の特権化しています。ボクシングではなく、ボクシングの基礎基本というお作法を学ぶためにボクシングジムへ会費を支払うボクサーも少なくないのではと思います。
これこそ紛うことなき仕事仕事の為の仕事、ブルシットジョブです。
儒教的な上下関係にあぐらをかく特権者の利益を守る為のお作法が整備され、そのお作法を創造するマナー講師などの仕事が生産される、というのもブルシット・ジョブの典型と思います。
知識や価値の伝達という本来の礼儀作法に持たされた意味が剥落し、いつの間にか仕事の為の仕事化していきます。
非生産的な仕事の為の仕事が増えると必然的に社会の生産性は劣化し、それを維持する費用をを賄いきれなくなります。
仕事の為の仕事をする人もエネルギーを消費し病気になりますから、それを社会の誰かが必ず賄わなければならないのです。
文明が崩壊するメカニズムだろうと思います。
だからこそ、古今東西には特権階級に高潔さを要求する文化的システムが実装されているわけです。
言語は現象を固定する
流動的な現象を固定しようとする言語の性質だと考えています。
スローガン化がその実現を妨げてしまうのは、流動的な現象を言語により固定してしまうからです。
「考えるな、感じろ」
「執着を捨てろ」
「LET IT BE」
「川の流れのように」
「白ウサギを追え」
「フォースに従え」
などは流体を流体として捉えろ、と翻訳することもできます。
僕の主張や基礎基本、目標を言語化し固定すると意味が消失して、別の現象を引き起こすことを理解し、あくまでもそれらは環境に応じて変更して良いものと捉えるべきです。
人は現象を固定化する観念化で群れを巨大化させてきたと言えますが、その観念化には社会と個人の腐敗を導いてくるという側面も持たされています。
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