競技時間を短くしてみたら面白いんじゃない?って発想は否定しません。僕も面白そうだと感じます。
しかし、早く消費して得られる快楽に満足するような人達に迎合する為にそうすることは僕には良いことだとは思えません。
何故、武士や騎士が礼儀などの、彼らの生き方に一々の面倒な作法を整備していたのかと言えば、僕が思うに、長い歴史の中で醸成された彼らの集合意識としての文化は、人の動物性を遠ざけることが必要だと記憶していたからです。
異性に「好きです」を伝えるのにも遠回りをさせる文化を形成するからこそ、男は相手を振り向かせる為に事業に精を出します。女には男の見た目や体格などの性的な魅力よりも、その男が人生をかけて何を成し遂げようとしているのか、そして、その資質はあるのかに注目する動機が働きます。
先祖が動物性を排除する文化を形成してきたからこそ、僕達は今の文明の恩恵を受けられているはずです。
早く出会って早くセックスをして性的、または承認としての快楽を得たい。早く得点が入るのを見て興奮を得たい。同じ構造に見えてしまいます。
肌の露出した若い女をチクトクで手っ取り早く摂取したい。女も手っ取り早く承認を得る為にチクトクで肌を露出して若さを売る。
古今東西にある文化が遠ざけ続けてきた、人の動物性が露出し始めている証拠だと思います。
未だに、それを拒絶する文化的な記憶が残ってることも感じますので、それに嫌悪感を覚える人も多いはずです。ただ、僕の娘の世代にそれがどれほど残されているかには強い疑念を覚えます。
古くからの宗教や文化に従い、近代的な価値観に抵抗しているような原理主義者が大切にしているものは何なのかを理解しようとせず、古臭いと彼らの価値観を否定するのは、とても浅はかな行為で、それは人が動物へと回帰していくことを間接的に肯定する行為だとすら感じます。
人が人としての矜持を忘れ、安い快楽に溺れ始めたら何が起こるのかを歴史は何度も経験しているはずで、それを文化の中に記憶として保存しているのだろうと僕は考えています。
話が長くなりましたので要約すると。
早く快楽を得たい人達に迎合することが長い目で見た時に発展を生むか?までを考える必要があるように僕は思います。
バレエや歌舞伎、琉球舞踊、茶道、空手のような伝統芸能にミーハーを排除するような複雑さが付属しているのは、偶然ではないと感じるからです。
何故、武士や騎士、貴族などの特権階級が、彼らの高潔さをその命よりも大切することを要求したのか。
文化を残す上でミーハーを歓迎することも大切かもしれません。が、彼らはすぐに飽きて去ります。
長い目で起こることを俯瞰すれば、古くからの文化を歓迎してきた層が好んでいた作法を破壊しただけ、という結果だけが残されるかもしれません。
新規の獲得だけに目が向いてしまうと、その文化の良さを広めてくれていた人達に愛想をつかされてしまうんです。そしてミーハーはすぐにいなくなる。
つまり、下手にミーハーを歓迎するから文化は消えてなくなるんじゃないかって主張です。
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