運動の世界観

よもやま話運動理論

世界観とは世界を統一的に理解する視点のことで、言い換えると個々人の頭の中にある仮想世界のことです。当然これは人によって異なるため世界は人それぞれ異なった姿をしています。
世界観を持っていないと思っている人でも無意識に世界観を築いています。
例えば「自由主義」「資本主義」「民主主義」「科学主義」。これらは教育と報道によって僕たちの頭の中に植え付けられた観念で、僕たちは上記の世界観で世界を理解しようとします。
ある意味では僕たちの住む世界の言語としての役割を果たしているので、この言語を持っていない人達とは意思疎通ができません。
「全体主義」「社会主義」「独裁国家」という異なる世界観を持つロシア中国、中東の国々とは相容れない部分があるようにです。

文化や国家だけでなく、個人間でもそうで、共有している部分もありますが細部では異なっていて、それは経験や知識に由来しますが、だからこそ同じ世界を異なる視点で理解し、異なった生き方をしています。
愛か権力か、それとも夢か。物質か精神か。何がこの世界を動かす力学だと考えるのか。人の数だけ世界があるのです。

ボクシングも同じです。
意識的にしろ無意識的にしろ、選手はそれぞれ異なる世界観の元、そのルールに従うように体を運用します。
僕は物理学や生理学、解剖学から引っ張り出した知識、また自らの経験によってボクシングの世界観を構築しているので、伝統的なボクシング観とは異なったボクシングが成立しています。

この世界にはもしかしたら魔法を元にした世界観を構築している人がいるかもしれません。
その人は僕の世界観では理解できない方向から世界を見ているので、僕が発見できない事象を見つけ、それを独自のアプローチで運用することで魔法で体を動かせるかもしれません。
「魔法が存在する」という確信を持たなければ、魔法が発動する条件を発見することができませんから、僕には魔法を使うことができないんです。

冗長になりましたが要するに、世界観ありきです。
それがあなたが注意を向ける方向を決め、その注意の向く方向によってボクシング、ひいては生き方が決まるからです。
才能は理解の及ばない神秘なのか、それとも理解可能な科学なのか。
前者は才能には近寄ろうとはせず、神を恨むしかありません。
後者なら運が良ければ才能の正体を暴いて、それを手に入れる努力ができます。

僕は戦いはコミュニケーションと言っていますが、これも一つの世界観です。
コミュニケーションは縄張り争いの心理戦です。
ポイントを奪い合うビデオゲームだと思っていたら、試合の緊張感、殴り合いの恐怖に耐えられません。
きっと勝負を途中で投げ出すでしょう。
でもコミュニケーションだと思っていたら、相手の意思を否定するゲームだと考えられたら。
練習が変わってきます。どうやって主導権を奪うか?に焦点が当てられます。

二軸も一軸も手打ちも引っ張りも世界観です。
技術的にそうであるというだけでなく、その世界観を持つことが強みになります。
住む世界が変わるからです。

「神様がいて、僕の生き方を見て運命を決めている」という世界観は僕を自責から解放し挑戦に積極的に恐怖に鈍感に、また人に優しくすることを肯定してくれるのです。
ボクシングなら恐怖や不安に鈍感になり、リスクの許容度が高まります。
言い換えれば世界観だけでパフォーマンスは一変するんです。

幼少期が大切なのは、その時期に得た世界観がその後の生き方を決めるからです。

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