
上の井上尚弥のダッキングとブロッキングの共通点が認識できますか?
僕の目には同じ動きに映ります。異なるのは「ダッキング」「ブロッキング」という解釈。
事実と解釈
数という論理的構造は、ある角度から見れば、とても単純で美しい形をしています(解釈)。
「事実」と、「どう意味が与えられているのか(≒解釈)」は区別する必要があります。
意味はヒトの創造物です。
「人は何故生きるのか」「人は何故生まれたのか」という問いに対する答えを提供する宗教が社会的に要求される理由でしょう。
世界には意味なんてないのだけど、それを創造してそれにすがりつかなければ人は生きていけません。
ヒトの生来的な性質は「事実」と「解釈」を区別しません。
数や物理法則の実体を見た人はいませんよね。確かにそれはあるような気がしますし、僕はそれに逆らうことはしません。が、記号化されたそれはあくまでも暫定的な解釈です。
例えば、数世紀前の物理法則は厳密には現代では通用しません。それは物理法則という実体の近似でした。
未だにこの世界の実体は掴めていません。そもそも、ヒトの認識能力が現実を正しく見られる保証がありません。極々限られた小さな空間を世界の全てだと錯覚している可能性がありす。
無限に重ねられた空間の、無限にある方向の一つだけを「世界」と認識できるだけかもしれません。あるいは、ヒトが住んでいるのは超ミクロに折りたたまれた空間で、その外は知る余地がないかもしれません。
つまり、この世界の実体をヒトが正しく認識できる保証はありません。在るのは「こうだろう」という解釈です。
警察は事故の真の原因を知ることはできませんよね。居眠りかもしれないし、よそ見かもしれない。

「事故が起きた」「側にタイヤのブレーキ痕ある」「加害者と被害者の供述」などの複数の事実を基に事故への解釈が与えられます。
時々、警察の恣意的な解釈で冤罪に巻き込まれてしまう人がいます。
閑話休題。哲学問答はこの辺で終わります。

要するに、ダッキングとブロッキングは同じ現象の異なる解釈なのでは?という論点の提起をしています。
僕には冒頭の井上のブロッキングとダッキングは同じ動作に見えるし、そう解釈した方がその競技能力を上手く説明できると感じます。
ボクシングの実体

以上の議論は、技術という体系そのものにも応用できます。
すなわち、ポジショニングやサークリング、サウスポー対策、二軸、手打ち、などを「骨格」という実体に落とし込めます。
腸腰筋が強い→斜め推進→二軸打法→肩関節の合理化(≒肩甲骨平面)
と論理的に接続できます。
この考え方は、捉えどころのない「ボクシングの実体」を操作可能な現実まで引きずり下ろしてくれます。

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