論理的な思考とは
最近の疑問。
「普遍的な正しさ」とは何か。
もっと言うと、「正しさ」と「正しさを証明する正しい手順」とは何かという疑問。
このモヤモヤを晴らすべく日に二冊ほどよんでいます。で、面白い本を見つけましたので共有します。
僕の疑問への厳密な解ではありませんが、面白いテーマだと感じました。
論理的な正しさを導く、手順としての「思考スタイル」の雛形を文化圏毎に定義し分析、その差を明らかにしています。
思考スタイルを日本、フランス、アメリカ、イランの4つの文化圏に分類しています。
エッセイとディセルタシオン
フランスのディセルタシオン
前提→正→反→合→結論
正は持論の肯定、反は持論の否定、合はそれらのバランスの調整。最後に結論を展開し主張を完了させます。
本を読んで感じた印象ですが、フランスの教育の重点は物事の視点の深さと個人の価値観の育成です。
正と反の相反する二つの立場を調和させ決断をするのは、その主張の主体となる個人の価値観です。
当たり前のようでいて、日本にはそれができる大人がほとんといないこと、そして、誰かの受け売りや他人への同調が意思決定の土台として機能してしまっていることがとても多いように僕の目には映ります。
フランスのディセルタシオンは、「合」の場面で自分の価値観を、つまりは社会における自らの立ち位置を明確に示す必要があります。
アメリカのエッセイ
結論→前提→倒立論証→結論
「倒立論証」は僕の造語。結論から逆算して今やるべき前提を明らかにする思考スタイルです。
徹底的に無駄を省き最小限の前提に落とし込むことを、エッセイはそれを書く人へ強く要求していると感じます。
つまり、目的を定義しそれを達成することに焦点が当てられている。
フランスのディセルタシオンと比較すると個人の価値観は無視されているように感じました。暗黙的に資本主義的合理という枠組みが用意されています。
実行力の点でならディセルタシオンを圧倒しそうではあります。が、自らの主張の欠点に目を向けさせるそれと比較すると、アメリカ型のエッセイを叩き込まれた社会は独善的自己中心的で、社会における自らの立ち位置には目が向きにくいのではないかと推理しました。
僕はフランスのディセルタシオン型の主張形態とその根底にある思考スタイルが好きです。人権などの近代的思想や哲学を大きく発展させた国だけあって、教育方針にもその実力が垣間見れられます。
日本やイランは別の機会に。
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