嫌なものは嫌だ戦略

よもやま話メンタル

「嫌なものには嫌だ」を認めることが導く結論と「我慢は美徳」という価値観が導かれた前提の長濱説。

「嫌いな人を避けてはダメ」「嫌いな練習を避けてはダメ」「嫌いなことから逃げてはダメ」
頻繁に聞く文言ですよね。
美徳として強制的に受け入れさせられています。

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「我慢は美徳」って洗脳ツール

僕が社会構造の上部に位置する権力者なら、組織にはこの価値観をを広めます。「我慢は美徳だ」と。

陰謀論的にそうなのではなく、本心から錯覚してそう言ってしまう気がします。指導する立場としてはそう言ってしまう方が簡単なんですよ。理由を説明して納得させなくていいので。

小学校で「大人の言う事を聞く子が良い子」という風な言い回しは聞いたことがあると思います。もしかしたら家庭でもあるかもしれません。陰謀論としてではなく、費用を嫌う本能が演繹する結論としてそうなるのだと思います。

幸いにも、僕はその逆の家庭で育ちました。父親には従順なほど叱られました。子供の頃は「自分のことは自分でやれ」と言われるのが嫌で仕方ありませんでした。が、今はそう洗脳した父には感謝しています。この年になると母親のように一々に干渉される方がよっぽど嫌です。

どうして従順なのがいけないのかを子供に納得させるのは大変です。3歳の娘との会話でも苦労します。「どうしたいのか」「何故そうしたいのか」を聞き出すのには時間と根気が要りますから。

なので、親や先生の立場からすれば、「大人の言う事聞く子は良い子」と洗脳してしまう方が楽なんです。

しかし、僕が娘にそうしないのは、その教育方法の価値に甚だしい疑問を感じるからです。

根気強く娘に「なぜなぜなぜ」と尋ねることには長期的に大きな費用がかかります。しかし、その費用の対価として、僕は娘に、彼女の命を他人ではなく彼女の為に使用する権利を与えられます。少なくとも僕はそう信じて行っています。

僕は幼い頃、父親には「何故そうするのか?」を泣き出すほどしつこく聞かれました。遠足のオヤツの買い物ですら「何故その店で買わなければならないのか?」と泣くまで尋問されました。泣いても終わりません。父親が納得するまで何十分も尋問されます。
その経験もあってか、僕は何かを始めようとする度に自分自身にその理由を説明する癖があります。
僕がボクシングジムで教えられるボクシングに納得しなかったのは、「何故?」が止まらなかったからです。

従順さと社会の腐敗

何故やるのかはどこまで突き詰めても、その先には「俺がやりたいから」しかありません。
しかし、ここまでたどり着くことが大切なんです。

「俺がやりたいからやる」と自分の意思を信頼できないこと、つまり、他人に人生の主導権を握られてしまうことが不幸を呼び寄せてきます。

そして、奇妙なことに他人の為に生きる人ほど、むしろ社会の足を引っ張っり腐敗させます。
何も考えない従順な人達は善悪の判断ですら他人へ委ねてしまうからです。
それは、かつてはナチスのユダヤ人差別(程度には諸説ある)や米国の排日移民法などの差別を助長し争いを生む下地となり、社会を破滅へ導きました。

ボクシングジムや職場、学級を思い出してください。
「我慢は美徳」「礼儀」などの他人を抑圧するスローガンを隠れ蓑に非効率が生かされていませんか。そして、それがその場所の雰囲気をギクシャクさせていませんか。

嫌なものは嫌だと認めるからこそ発展が起こります。

寒いのは嫌だ。
生肉を食べて食中毒で苦しむのは嫌だ。
病気で死ぬのは嫌だ。
小さな世界で死ぬのは嫌だ。

という感情こそ、火や医療、数学や科学などの発明の源泉となってきたはずです。

「嫌なものは嫌だ」と認めてしまうのは大切なことです。我慢だけでは何も起こりません。
むしろ、それは腐敗の温床として機能します。

「嫌なものから逃げるな」を分析

見出し主張の文脈を考えます。

恐らく
「ボクシングは好き。だけど指導者が嫌い」
という状況になった時、往々にして人は嫌いな物を錯覚してしまうことに由来した主張だと思います。
指導者を変えればいいだけなのを、なぜだかボクシングから逃げる選択をしてしまうようなこと。

より良いやり方や環境を探すことにはコストがかかる為に、原始的な本能はそれを回避します。
それが結果的に好きなことや大切なことを捨てるという選択をさせます。

夫や妻が嫌いなのではなく、その人のある部分が嫌いなんです。ただ、それを直接伝えて理解させるには時間と労力が要る。本能はその費用を嫌います。だから、長い時間をかけて得られた最大の理解者を捨てるという間違った選択をさせてしまいます。
往々にしてあることで、経験者も多いはずです。

ボクシングが嫌いでないのなら、指導に納得がいかないのなら直接トレーナーに言えばいい。
それでも変わらないなら経営者にトレーナーの問題を主張して議論する。
最終手段としてジムを変える選択もできます。

または自分で自分のトレーナーをする手もあります。当然ながらトレーナーとしての知識を集めるのには労力と時間がかかる為に、それを嫌う本能はその選択肢の認知が起こらないようにしてしまいます。でもやれます。

好きなことを辞めていいのは、それが嫌いになった時だけです。

どこで勝負する

逃げることと自分の嫌なものを遠ざける努力をすることは異なります。
指導者が気に入らないなら、既述のようにいくらでも手段はあります。その中からあなたが納得できる方法を選択すれば良いのです。

自分の意思による選択はそれが自分の責任であることを自覚させます。つまり、精神的な退路が絶たれてしまうのです。

自分の意思でトレーナーを変えてジムを変えてとを繰り返す行為が、自分に選択肢を失わせていることを本能に自覚させます。そうして言い訳の余地がなくなれば、やるしかなくなるんです。

僕の例で例えると。
娘と月一の面会をする為には所属は日本国内が良い。さらに、自分で判断し自分で行動することで、後悔の余地のないやり方をさせてもらえるジムでなければならない。
海外での試合や国内での大きな試合を目指したいと考えた場合、石田会長の国内外の人脈は大きな助けとなる。

こんな風に結論しました。
大手ジムでは、選手は他との足並みを揃えることが要求されます。個々人に好き勝手に動かれると費用が嵩みますからね。大企業ほどアニマルスピリッツよりも秩序だった行動が求められるのと同じ論理です。

以上のように自分の意思による判断と選択を繰り返した僕の心はこれ以上の退路がないことを強く自覚しています。「嫌なのものは嫌だ」と自分のわがままを聞き、言い訳の余地を失わせたからこそ、僕はやるしかありません。それこそが、不安や恐怖を克服し理想を実現しようとする行動の原動力となっています。
僕には惰性で動く暇も余裕もないことの自覚があります。

他人に責任転嫁して言い訳ができてしまう内はまだまだやれます。

まとめるとぉ。

「嫌なものは嫌だ」戦略は言い訳の余地を失わせて防衛本能を活性化させます。
それは個体のアルファへの変化を促すホルモンを分泌し知力気力体力を充実させます。

ブッダの言う悟りはおそらく、テストステロンがアルファの性質を覚醒させた状態です。
執着を捨てろ=誰かに期待するな=言い訳の余地を消せ

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この記事を書いた人

第41第東洋太平洋(OPBF)ウェルター級王者
元WBC世界同級34位
元WBO-AP同級3位
元角海老宝石ジム所属

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