個性について考える

よもやま話
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「俺は他の奴らとは違う」って欲求

個性は群れの中にいる個体の生存戦略です。
群れの仲間に「俺には価値があるぞ、仲間になった方が身のためだ」を示すためのもの。

だから人は「俺(私)は他人とは違う」と思いたいし、思わせたいいんです。
そう思うからこそ群れの他の個体とは異なる性質が獲得でき生存で優位に立てます。自然な、そして必要な感情として自然から授けられました。

物語の創作能力

人類がまだ原始的な動物だった頃、最強の生存戦略は身体能力の向上です。それが最強の個性です。狩りやメスの奪い合いで物理的に優位に立てます。

ただ、人類は動物の局面は超えて別の局面へ移行しました。

ある時期から、人類の中に観念を擬人化し、その存在を認識、共有する能力を獲得した集団が現れました。

原始的な人類の理解を超えた奇妙な自然現象の説明に、恐らく神や妖怪って概念を用いたはずで、その名残は現代にもあります。

概念を擬人化して、理解不能な現象の説明を試みたわけです。

重要だったのは、それをみんなで共有できたこと。
同じ神、神話を共有できるようになったことで、人類の群れは巨大化しました。数の暴力で他の種族を圧倒し続け今に至ります。

今は科学って神に現象を説明させ、その神話を共有しています。概念を細かく定義して厳密に操れるようにしただけで、やっていることの大枠は古代からあまり変わりません。ただ、今のところその方法は現実を上手く説明しています。

前提→結論
原因→結果

上は科学を説明する為の数学って手法を支えている、写像や関数って概念を抽象化したものになっています。
数学は写像で説明されます。写像は認識を延長したもの(長濱説)。だから数学の結論はあくまでも現実そのものではなく、人の認識世界の延長でしかありません。

それが現時点で現実を説明できているのは偶然かもしれず、さらに文明が発展した時には新たな認識が要求されるかもしれないんです。そもそも数学者は現実の説明には興味がなさそうですらありますが。

話を戻すと、人類がユヴァル・ノア・ハラリの言う虚構、僕の言う世界観や哲学を構築し共有する能力を獲得してからは、人は身体能力に頼る動物的な局面から、知的生命体としての局面へ移行しました。

代表的なのは聖書。
古代から最も共有されている物語です。

神って前提から世界の説明を試みています。
聖書から科学へ変わったことで物質文明は劇的に発展しましたが、聖書も科学も、認識によって物語を創るって意味では変わりません。数学の発明で物語の前提と認識の扱いが厳密化しただけです。

聖書の時代から、僕たちは認識を世界そのものと錯覚する癖から抜け出せていません。聖書や数学が現実を正しく説明できると思い込んでいます。人の認識が世界のありのままを見ている保証はありません。もしかしたら原因と結果って認識や真偽って二つの値では説明できない領域があるかもしれないし、今後現れるかもしれません。
僕は詳しくないので言及はできませんが、極小の領域を扱う量子力学なんかには結果だけが出現する、または確率が偏在しているだけで原因が特定できない、って話もありますよね。
原因があるなんてのは、本当に人の認識の世界だけかもしれませよ。

例えば宇宙の起源については「始まりの始まりの…」と原因→結果という認識なら無限に遡る必要があります。つまり原因→結果では説明できません。「最初から在った」とか「突然生まれた」とか「神が創った」とか「無の存在」とか現時点では意味不明な始まりになります。

現代は科学や経済的合理がハラリの言う虚構、中世ヨーロッパの聖書の役割を果たしています。
それを共有している誰もその全体像を把握、理解していません。

「ボクシング」という物語も虚構です。アッパーフックストレートジャブなんてものは実在はしません。みんなであると思い込んでいるだけ。
便宜上あるとに決めただけなのに、それ以外のパンチを打つ選手を見ると「こんなパンチがあったのか…」と驚きます。滑稽です。

形がないものに形があると思い込む。そうやって無形から発生する性質を破壊する。
「家族」「心」「経済」「人生」など、人は流体であるはずのものに勝手に形を定めます。
そしてその流体を定型の鋳型に無理やり押し込んで本来の流体としての性質を破壊してしまいます。

受験、就職、ボクシングジム、学校、職場。ありとあらゆる場所にマトリックス(認識の鋳型)はあります。

自らの認識の檻(マトリックス)に囚われて苦しむ愚かさを指摘したのが仏教です(長濱説)。
僕たちは認識の中に勝手に見出しただけの形に執着し右往左往して苦しんでいます。だからブッダは「煩悩(こうあるべき)を捨てよ」「縁(ネットワーク上に)起(自然発生)」「諸行無常(川の流れのように物事に形はない)」と説いたわけです。

ボクサーはボクサーが勝手に見出した形などないはずのボクシングという観念に囚われて、真のボクシングを手放しています。本来のボクシングは川の流れのように、環境に応じて変化する流動的なものであるはず。というか本質的には環境への対応こそがボクシングなはずです。

勝手に作り出した空想上の概念を擬人化し形があると思い込む能力がある故に、僕たちは同じ物語を共有でき、高度な意思疎通ができるわけですが、時にみんなで現実を見誤ることがあります。

道具として開発された国家、貨幣、教育、宗教、政治って観念に操られてしまうことがその典型で、どこかで踏みとどまらないと、観念と心中する破滅的な結末を迎えます。

個性≒物語

話を冒頭に戻すと、人類は進化し文明を発展させる過程で動物的な価値観である、繁殖(セックス)、暴力のような原始的な欲求を遠ざけてきました。
恐らくそれらを肯定するのは遺伝子や文明の保存に不利だったから。つまりそれらを肯定したものは淘汰されたんです。

動物的な価値観に囚われるのは、退化だと僕は信じています(動物の存在の否定ではない)。原始的な欲求を遠ざけることで文明が発展する論理が在り、だからこそスポーツや芸術、学問などが発展してきたんです。
欲求の直接的な開放は破滅を導きますが、その欲求不満の間接的な爆発は、文明や個人の生活を発展させます。
つまり、欲求は動物のように直接的に開放するのではなく、人としてのやり方でめ開放すべきなんです。

その過程で獲得される自我こそが個性であり、知性を持つ個体の存在意義です。

人が動物である以上は上記の原始的な欲求は避けられません。でも「人類は動物である」という自覚と同時に「俺達は他の動物とは違うんだ」って矜持だけは持ち続けなければならないと僕は思います。

先祖は「武士道」「騎士道」のような高潔な価値観にそれらを昇華させてきました。そして、それらが社会の安定と発展の土台となりました。
武士道は今でも強烈な個性として他国を魅了しています。

個性は哲学、世界観

見た目のかっこよさ、綺麗さが個性だと言うのは動物性の現れで、遠ざけなければならないもの。

真の個性は、個人が成長の過程で構築してきた世界観、哲学でなければならないし、自然はそれを要求していると僕は感じています。

見た目がかっこいいとか、喧嘩が強い奴よりも、物語≒論理を構築する能力に長けた個体が群れを統率してきたことからも自然の意思を感じることができます。

鏡を見て肉体と向き合っている暇があるのなら、魂と向かい合い哲学を磨くべきと僕は信じています。

ちょうど今のような革命期は、当たり前に受け入れられてきた物語が効力を失い、遠ざけてきた原始的な欲求が優位となるのことで一時的な動物への退化が始まります。

男がせっせと床屋へ通い始め、化粧やらムダ毛処理に時間を費やすようになります。古代ローマのユウェナリスは「パンとサーカス」と表現し、男が哲学をやらなくなって、ごった返す床屋を見て呆れました。

欲求不満を動物的な安い快楽に浪費するようになれば、真の個性は身につきません。そんな個体は死の間際には用無しとして群れから排除されてしまうだろうと本気で感じています。現に老害という言葉があります。

きっと僕を含めてそれを自覚できるのは、死ぬ時です。死ぬ間際に文字通り死ぬほど後悔します。

そうならないための個性です。

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Die Hard – ダイ・ハード
この記事を書いた人

第41第東洋太平洋(OPBF)ウェルター級王者
元WBC世界同級34位
元WBO-AP同級3位
元角海老宝石ジム所属

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