群れのボスは物語を創造する人です。
それは「経済的合理」であり「科学」であり「聖書」であり「仏教」であり「ボクシングの基礎基本」です。
他にも沢山あります。
それらの物語に人は服從します。
種の保存という観点からはそれが都合が良いのです。愚かで何も考えず、他人の書いた物語に迎合するバカが多い方が巨大な群れを形成できます。人の群れが他の種族を圧倒している事実がその優位性を証明しています。他の動物は精々が血の繋がった小さな群れを形成できる程度。アリのような低コストの生物ならそれも可能ですが、個体の生産と維持に膨大なコストが要求される人のサイズになれば、血の繋がりだけでは数十から百頭前後が限界でしょう。
以上の仕組みが人体には内蔵されていると仮定するなら、人の弱さと強さを定義するのは言論能力です。
イエスやブッダ、ヒトラーには他人を説き伏せるだけの力があっただろうし、科学を引っ張る科学者にもその力がある。革命家や政治家もそうです。独自の思想と強力な言論能力が群れの統率に要求されます。
強くなる為には反論者にグウの音も出させないほどの圧倒的な論理を構築すればいいってこと。
例えばジムのトレーナーや会長を説き伏せる為に要求される能力です。他人を言論で圧倒できる能力が自分にあると想像してみてください。
自分自身の信念に従えるだけの勇気と他人の身勝手さを拒絶するだけの強さが自然と湧いてくるはずです。
それは当たり前のことように感じますが、当たり前ではありません。言論が優れているから人として優れている、という保証はありませんから。
であるのにそう感じられてしまうのは、本能にそう感じさせる仕組みが内蔵されているからだと推論されます。
つまり、論理的に整合した物語は既述のように他人をコントロールするのと同時に、自分自身ですら完璧にコントロールできるということです。
何故生きるのかという独自の哲学が人に内蔵された強力な動機を生み出す仕組みを刺激してくれる。だから聖書や仏教が広く受け入れられているんじゃないの?って。
自分の人生を生きる為には、他人の物語を拒絶だけの強力な自分自身の物語が要求されます。
もしも行動を起こす勇気がでないのなら、自分を説き伏せるだけの、現実に整合した物語を創れていないことを考慮してみると良いかも。
人の因果関係の認識の枠組では論理学や数学の否定が困難なのはそうゆうこと。
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