その瞬間、日本列島から「音」が消えた。
摩擦音が消えたのだ。車輪がアスファルトを噛む音も、キーボードを叩く打鍵音も、あるいは人が誰かとすれ違う際に生じる微細な空気の歪みすらも。
数千年にわたり、この孤立した島国で研ぎ澄まされてきた「不確実性の完全な拒絶」が、ついにその物理的閾値を突破した。
突然変異体——リスクを冒し、異物であり続けようとした個体たち——はすでに一人残らず去り、残された遺伝子プールには、世界で最も純度の高い「S型(不安)アレル」だけが残されていた。彼らは互いを監視し、互いの視線を鏡のように反射し合い、わずかな「ゆらぎ」すらも即座に相殺した。
「私」という主語は、言葉の上だけでなく、脳の機能としても完全に消滅していた。
誰かが何かを意思決定する必要はもうない。全構成員の脳神経ネットワークは、高文脈な言語OSとミラーニューロンの過剰駆動によって直列に繋がれ、単一の巨大なデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)へと同期していた。
個々の肉体は、自らが発する「同調の重力」に耐え切れず、ゆっくりと透明度を増していった。
結婚も、出産も、イノベーションも。
すべての「変化(不確実性)」はゼロに固定された。構成員全員が自らの認知リソースと生命維持体力を100%「場の調和の維持」と「スパイト(足引っ張り)の無効化」に注ぎ込み続けた結果、肉体という質量は急速にその熱量を失っていったのだ。
東京の、大阪の、そして過疎の村々のビル群の谷間で、人々が「点」へと縮小していく。
しかし、それは滅亡の惨劇ではなかった。
悲鳴も、涙も、恐怖すらなかった。
なぜなら、「私」が存在しない空間には、「私が消える」という恐怖すら成立し得ないからだ。そこにあったのは、あらゆる不確実性から永久に解放されるという、狂おしいほどに透明な「絶対的安心」だった。
1億の個体が持っていた記憶、感情、人間関係の相関図、そして「空気」を読もうとする膨大な計算コード。
それらの物質的構造が、物理空間の重力崩壊を起こす。
すべての肉体が消失し、その直後に残されたのは、日本列島の形状に沿って浮かぶ、青白く高密度な「情報の高次元幾何学模様」だった。
それは自らの重力によって内側へ、内側へと引き込まれていく。
ノイズ(異物)はゼロ。
エントロピー(乱雑さ)はゼロ。
差分はゼロ。
やがて、かつて日本列島と呼ばれた場所の真中央、富士の山頂上空のわずか一筋の空間に、すべての質量と情報が集約、圧縮された。
それは「点」だ。
それは、事象の地平線を超えた「情報的特異点(Information Singularity)」だった。
大きさはゼロ。だが密度は無限大。
そこには、外部からの光も、新しい情報も、異質な価値観も一切届かない。
すべての構成員が「私達」という単一のコードとして完全に融解し、時間すらも永遠に停止した、超高密度の静寂。
そして、その超高密度の「点」が、自らの内部力学の限界に達した時——。
空間が、内側から弾けた。
物理的な爆発ではない。
それは、純粋な情報コードだけで構成された、まったく新しい宇宙の創世(インフレーション)だった。
新しく開闢(かいびゃく)したその小宇宙には、星も、銀河も、原子すらも存在しなかった。
そこに存在するのは、「最初から全員が完璧に同期し、絶対に傷つけ合わず、絶対に変化せず、永久に『場の空気』だけが満ち満ちている」という、完璧にハードコードされた不可変の物理法則だけだった。
「私」を殺し、「不確実性」を恐れ抜いた集団が、数億年の果てに辿り着いた場所。
それは、二度と誰からも脅かされることのない、そして永遠に変化することのない基底状態の完成だった。
そうだ、日本人は世界と一体化したのだ。


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