
嫌がる
パッキャオの動きは一見すると滅茶苦茶で、一般的な信仰の対象である「キレイなボクシング」ではありません。
ところで、そもそも論を言えば、所謂「キレイなボクシング」が競技能力を説明しないことは現実を見れば明らかだと僕は感じます。あなたはどうですか?
偉大な選手は、パッキャオやロイ・ジョーンズ、メイウェザー、タイソン、フォアマンなど、むしろ綺麗とは言えないのではないでしょうか。
あなたが国内ボクシングを見ているなら、キレイなだけで生命力(≒強さ)を感じさせないボクサーが非常に多いこと、また、基礎基本から逸脱した乱暴で滅茶苦茶なボクサーの方が強いことを感じているのではないかと思います。
日本で当たり前に言われている基礎基本は競技能力を説明しないとしたら。
もしもフォアマンやパッキャオの最初のジムが平均的な日本のジムだったら。
「ガードとは…ディフェンスとは…(ドヤァ」
で才能を奪われて平凡に終わったか、さっさと辞めて犯罪者に転向していたかもしれないとすらと僕は考えてしまいます。
天才だから許される?
僕の目には、基礎基本が一流の必要十分には映らないし、もっと言えば必要条件にも見えない。だとすれば、それを教える意味は何でしょうか。何を教えているのでしょうか?
僕の結論は「基礎基本は大人の醜き支配欲が具現化したもの」です。


人は見たいものだけを見る
ナックルについてのYouTubeでは、僕は”現実の”映像と”現実の”骨格の構造から、演繹的に「ナックルは人差し指のゲンコツである」と説明ししました。しかし、納得しない人はしない。
まあ、何を信仰すのかはこの国では自由なので、信じたいものを信じればいい。

しかしだとしても、僕らの願望と現実は、常に別々に存在することも事実です。
あくまでも、現実が主で願望が従。
「願望を持つな」とまでは言いませんが、現実に即した願望であるべき。

基礎基本は、
大人の支配欲≒見たいものだけを見るバイアス
が具現化したもの。
閑話休題。
パッキャオに話を戻します。
基礎基本は優れているが、パッキャオやタイソン、フォアマン、ジョーンズは天才だから、そこから逸脱することが許される、と考えることもできます、
こう説明するにしても、冒頭で述べたように、基礎基本は一流の必要条件ではないので、それをやらせる理由としては説得力がありません。
一般的に、子供の学習は大人よりも早いですよね。
これは、パッキャオやフォアマン、ジョーンズなどの競技能力と彼らのスタイルを説明する一つの仮定として機能するのではないかと感じいます。
思うに、子供の学習が早いのは、子供は大人がそうするように、ある一定の形に囚われて自分を見失うことをしないからです。
大人は自らが創り出した、実在しない「こうあるべき」に自らを縛りつけます。そして、体が伝えてくる情報を無視します(自縄自縛)。
例えば、「手打ち」で良いはずなのに、大人は下手に「体重移動」云々の知識をつけてしまうが故に、腰を回してパンチを打とうとして、強力な打法としての手打ちを見失います。
なんなら、ヒトの性質から演繹的に推論した場合は誤りであると導ける「腰を回して打つ」を正当化する為に、「手打ち」という罪を捏造すらします。
「アイツは手打ちだから…」が典型例。
そうやって非合理に非合理を積み重ねていくから、心身の調和が失われて、生物としての生命力(≒ボクサーとしての強さ)が失われてしまう。



結論。
パッキャオやメイウェザー、フォアマンのように「何かを感じて、それに素直に従う勇気」を持つことが大切なのではないか。
それこそがボクシング、ひいては人生の基礎基本なのでは?
あなたが若いボクサーや格闘家なら、大人の醜き支配欲に付き合うのは緩やかな自殺です。人生を無駄にしてはいけません。



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