「真っ暗な中でこそ、人生の光明が見えてくる」
素敵な表現。
人それぞれに異なりますが、「悩み」は誰しもが持っているものだとは思います。
10代20代はくだらないことで悩んでいた、と自分自身ですら感じられてしまうほどに、悩みの種を抱えていました。それが理由で人間関係を上手く作れないこともありました。
しかし、その悩みから導かれた解こそが、長い目で見て、僕の真の財産であると感じています。
特に、他人から「くだらない」「理解できない」と言われる悩みであればある程、それは貴重な財産ヘと変化する確率が高いと感じます。
幸福論
悩みは不快な感情です。
しかし、それを完全に消し去ることで幸せになれるかと言えば、そうではないとも感じます。
仮に悩みのない人生を想像するなら、それは、それこそが悩みになるだろうことを容易に想像できます。
人は「比較」により物事の価値を認識します。
つまり、悩みという不快な状態を経験しなければ、そうでない快の状態を認識できません。
不快と快を比較するからこそ、快を求めるエンジンに火がつきます。
そしてその過程こそが、ヒトの真の認識を開眼させるのだ、と僕は経験上で感じています。
例えば僕の経験で言えば、「自他の境界線の認識」が始まったのは、十代後半の些細な葛藤からだったとを記憶しています。
それ以後で人格は豹変しているので、僕の幼い頃を知っている人は、僕の豹変ぶりに驚きます。そのきっかけとなった体験です。
当時の僕が抱えていたような、誰にも理解されない悩みこそが、真の認識の入り口だったのだと感じています。
真の認識
時間や体力という、有限の資本をやりくりして快を追い求める、という過程には、必然として取捨選択が起こります。
それは「自分の意思」と「他人の期待」との差を認識させます。僕はこれこそが「光明」と呼べるだろうと感じます。
つい最近の僕にとっての光明は、「父親」と呼ばれる社会的な偶像を看破したこと。
今となれば、何故こんな簡単にことに気が付かなかったのか、と感じられます。が、当時は社会的な父親像としての「こうあるべき」に雁字搦めにされ、身動きが取れませんでした。
今は
「俺の在り方こそが『父親』だ。誰がなんと言おうが、俺にとってのそれは、俺が定義する。」
と心から感じられます。
大切だと感じている何かを守ろうとする行為が、社会の洗脳を解き、ガラクタをガラクタだと判断させる真の認識を起した、と言えます。
まとめると。
悩みがあるからこそ、人生は充実する。あるいは、悩みのない人生ほど詰まらないものはない。
心の底から大切だと感じられる何かを守ろうとすることで、真の取捨選択が起こる。
そして、それが必要不要の境界線を明確にし、ガラクタをガラクタと判断させる認識を開眼させる。
山田さんの紹介していた「苦役列車」は、長岡に勧められました。筆者の体験が元になっていることがすぐに推理されるほどには現実味のある描写がされています。
みんなが普通にできてしまうことを普通にこなせない、その日暮らしの日雇い労働者の日々を描いた小説で、映画化もされています。
山田さんも述べていますが、普通の人が普通にできることすら満足にできないのなら、その体験は大きな財産に変えられるのです。
上手くいかない、苦しい経験をどの視点で捉えるのか。
そのゴミと一緒に腐るだとしても、楽しく納得のいく腐りかたをすべきでしょう。
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職業が作家だけあって知的な印象を受けます。
また、僕はゲイではありませんが、誰かや何かに依存することなく、自らのみを頼りに我が道を行く肉乃小路ニクヨさんは魅力的に映りました。
彼女達が強く、また賢く見えるのは、他人と異なる自分を受け入れたのことで、真の認識に至ったからだ、と推理します。
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