ダイアモンド博士の、人類学的に宗教を定義しよう、という議論が面白いと感じましたので、僕も真似して遊びます。
宗教の定義は難しい。
一つは、「神の存在の有無」で分類できてしまうこと。
ユダヤ教から派生した宗教には神がいます。しかし、神道や仏教、儒教には一神教の神に変形できる概念がありません。
僕の感覚としては、前者は個人の為の哲学というよりはむしろ、社会統治を目的とした概念であると、すなわち現代の法律や経済、医療、科学を濃縮して、それぞれを薄めたような概念であると言えます。それに社会の全員を従わせることで、つまりは現代では法律や経済、科学がそうしているようにして、社会を効率的に運営する為のシステムです。
後者は社会に住む個々人の生活の改善を焦点とした人生哲学が近いと考えます。
以上のような違いは、農業を重視する大陸的な全体主義気質、漁を重視する海洋民的な個人主義気質が影響しているのかなあとも感じます。
現代に整備された法律や経済、科学の法則性は、この世の理を視覚化したものだと仮定するのなら、すなわち「種の繁栄」という暗黙的な人類の合意を含意する概念である、と仮定するのなら、それは聖書の”主”と形容される神の概念と同義変形が可能ではないかと。今回はそうだと仮定します。
例えば、この視点から聖書で禁じられている行為への解釈を与えるとすれば、当時は食すことに衛生的な懸念があったような生物や、その蔓延が社会を破壊しかねない男女の関係性、またそれを導きかねない女性と男性の態度を戒めている、と納得できます。
統計的な手段を用いた因果関係の説明が困難だった古代では、「神」という真理を創造することでしか、それを戒められなかったのだと推理します。
現代の環境下で整備された価値観を元にそれらを眺めると、それは古代人の奇妙なパラノイアにも感じられてしまいますが、当時には社会と個人の生活を安定させる合理的な教えだったのだと推理できます。
また、一神教は他宗教との同化を遠ざけて自然の淘汰圧に耐えうる論理構造であること、また「神」という世界の起点の創造が、因果関係により世界を認識する人の思考メカニズムと調和しやすかったことも説明変数としては大きな役割を持つと考えられます。
が、それだけなら、ここまでの普及はあり得なかっただろうと僕は考えています。
ここまでをまとめると、聖書は建設的パラノイア説。
宗教が普及した要因として、現代人と比較して古代人がバカであった可能も考えられます。しかし、数学や論理学の基礎は、聖書が普及する以前の紀元前三世紀頃に開発(ユークリッド言論)されました。
現代に普及している演繹的な思考スタイルは、その定義や抽象度は変化しているものの、未だに人類の主流の思考スタイルであるように僕の目には映ります。
仮に彼(彼ら説もある)が現代に現れたとするなら、現代の天才と同じように、現代人の大半を圧倒する知能を有する存在となるはずです。彼の後に二千年以上先を行く現代人を全て集めたとしても、彼に対抗できるほんの一握りだけでしょう。
つまり何が言いたいのかを言えば、古代の価値観が今にそぐわないことと、古代人がバカであることは同義ではい、ということ。古代人も現代人と同等に物事を考えられます。遺伝的には交配可能な同じ種類の生物です。
知識という意味でなら、現代人が上回るかもしれません。が、単純な知能でなら古代人は現代人には負けていないはずです。
従って宗教は、論理的に妥当な解を導ける知能の高い集団に受け入れられた合理的な現実の説明だった、と考えられます。それらが整備された当時には、それは科学と同等の合理性があったのでしょう。
ここまでをまとめると、宗教≒建設的パラノイア説。
何が言いたいのかと言えば、宗教は過去の遺物ではなく、現代にもそこかしこにあるものであるということ。
また、ある特定の、例えばその規模だけから宗教の要素を抽出するのは難しいか矛盾するだろうと。「神」などがその典型です。一神教的に「神」を定義しているからと、それを宗教と呼ぶのではありませんよね。
ここからは宗教と信者の関係に着目し、それを抽象して、宗教の定義を試みます。すなわち、宗教とは、それとそれに属する集団の関係の上に生ずる現象である(縁起)と仮定します。
この視点から宗教を眺めるなら、すなわち、俗に宗教とその信者、と呼ばれる対象の関係を抽象するなら、それらには同等の規則を見いだせると僕は感じます。
それは親子関係です。
ある要素を「親」と認識する「子」の要素の集まりが宗教です。
幼少期の子が、親の言うことに逆らえないような、そして親の言うことは真理であると錯覚するような関係です。
科学であっても、その信者がそれを無条件に正しいものだと信じて疑わない対象にしているのなら、それは宗教と言えます。
俯瞰した視点なら、「宗教(≒親子関係)」は人類の統率システムそのもので、人類とは切っても切り離せないものだ、と言えると思います。人類そのものが親子関係に駆動されます。
設計者が人類の存続にかかる費用を徹底的に削減する為に導いたシステムだと考えます。
すなわち信仰が人類そのもの。
幼児性(信仰心)を刺激する物語(≒論理)を有し、幼児性(≒依存心)を持つ集団に駆動されているのが宗教。
結論、社会こそが宗教。
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