存在は存在するだけ、そこに意味はない。無意味に意味を見出そうとする行為が不幸を呼び寄せてしまう。
人は虚構を作り上げる
虚構を創るのが人
詳しくは下のリンクの本を読んでください。
虚構は僕の言う「世界観」のようなものです。分かりやすいのが宗教。少し前までは宗教的、封建的な価値観で人々は世界を理解し、また個人間の意思疎通の道具として機能させていました。
そして今の虚構は経済的合理性と科学です。僕を含めほとんどの人はその原理を理解せず、そうだと教え込まれてそれを信仰しているだけなので、宗教と同じく意思疎通のツールでしかありません。
それが今少しづつ壊れ始めていて、人々の言葉が通じなくなり始めています。旧約聖書で言うなら資本主義貨幣経済はバベルの塔です。崩壊に伴い言葉が砕けています。傲慢になった人が自爆し言語を失う様を表現でしているのですが、言い得て妙ですよね。古代人の知性を感じますし、「物質主義を極め崩壊」という歴史は古代から何度も何度も起こっている雛形であることが窺い知れます。今は崩壊の前夜だと感じます。
貨幣も数学も物理もあると仮定しているだけです。今のところはその仮定は上手く現実を説明できていますが永遠にそうである確率は低いと僕は思っています。なんとなく、いつかは科学も数学も崩壊して人類は虚無へ移るのだと。
閑話休題。虚構を創り上げる能力により人は物理学や数学という確からしそうな物語を拵え、それで現実を理解し、人類に有利となるように環境を変形させてきました。
虚構は人を人たらしめる強力な能力であると同時に自縄自縛の縄にもなります。
常識という虚構
人は自分の置かれた状況を常識と呼ばれる虚構を元に客観的に評価してします。
僕が少し前まで大阪で置かれた状況の事実だけ列挙すると「離婚し仕事を失い、子供にも会えず、家もなくホームレス、公園で読書が日課」です。どう感じますか?楽しそう?辛そう?
僕自身はその現実を「大変だなあ」とは感じながらも、良し悪しで評価することはありませんでした。客観的な幸せを目指した所でそれは僕にとっての不幸でしかないと知っていたから。
僕は僕の臨んだ生き方をしていますから、当然ながら不平も不満もありません。僕は僕の人生の支配者となり、誰にも指図されないこの状況を楽しんで幸福を味わっています。
現状のあるがままを受け入れ、それには客観的な評価は与えません。ただただそれを感じるのみです。たまたまそうなっているだけの現状の無意味に意味は見出しません。
あるがままを受け入れれば楽なのに、理性による常識で自分を評価しようとするから不幸を呼び寄せてしまいまうんです。
理性の常識的な要求に応え、あなたにとって不要なことに金と時間を浪費すれば自己実現は遠ざかります。仮に常識的な評価を完全に満たしたとしても、心の渇きは癒せません。それを繰り返せば繰り返すだけ、心という大地は干からびて力を失っていきます。
意味を見出すのをやめる
人の性質として「存在」や「状況」には物語を求めます。しかし、実際には存在の為の物語なんてものはなく、ただ在るだけです。風が吹けば埃が舞うのと同じ。なるようにしかなっていないません。人の理性が現実に悲観的な解釈を与えています。
そうやって無意味に意味を見出そうとすることが不幸の始まりだと感じられるようになってくると、この世界には不幸を生み出す多くの常識(客観)があるのだと気がつけるようになりました。
若い頃は本当にどうでもいいことに気を揉んでいました。
人生はなるようにしかならない、それでもなんとか楽しくやれる。気楽に行こう。
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