判断の連続がボクシング。
判断の源は哲学。
つまり、ボクシングとは哲学。
自らの哲学を持つ
哲学が判断を作る
【哲学】
コトバンク
世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問。 とらわれない目で事物を広く深く見るとともに、それを自己自身の問題として究極まで求めようとするもの。 古代ギリシアでは学問一般を意味していたが、のち諸科学と対置されるようになった。 論理学、認識論、存在論、哲学史、倫理学などの諸領域を含む。
人生や世界の真理を探究するのが哲学です。哲学は人の判断とそれに伴う行動の原動力であり、引いては人生の結末を決定するものです。
哲学が無ければ判断は場によって与えられます。自らの哲学を創ることによってのみ、マトリックスから抜け出すことができます。
いかなる解釈においても真理は真理であると考えてしまいたくなりますが、実際に真理にたどり着いた人はいませんし、真理が人の望む形をしている保証はありません。
きっとこの世界は人が想像するような一元的な解釈は不可能な構造をしていて、好きに解釈することが許されています。
だから哲学は人それぞれあって良いはずです。
少なくとも長濱拳法では世界や人生の解釈の仕方は人それぞれ好きにしていいとしておきます。
真理が捉えようによってはいくらでも解釈できるものだと仮定すれば、個人のこの世界の解釈の仕方には無限の可能性があります。
三次元の円錐は二次元でなら見る視点によって「三角形」にも「円」にも「点と円」にも解釈できます。円錐も四次元にある何かの三次元的視点の解釈の一つに過ぎないかもしれません。
どんな哲学でもあなたが合理的だと思えればそれには価値があります。僕は人それぞれ色んな哲学を持っていた方が世界は面白くなると思っています。反対意見があった方が人生には張り合いが出ますからね。
閑話休題。
哲学が大切なのは、それが判断を創るからです。
そして判断が行動を、行動が現実を作っていきます。
もしもあなたが哲学を持っていないなら、判断は場の雰囲気によって与えられます。
それはあなたの欲求に反したものであるかもしれません。やりたくもないことの為に生きる。これが不幸の始まりです。
生きていたら不運は間違いなくあります。しかし、信念があれば不幸はありません。
判断が他者から与えられた時、人は不幸を感じます。
動物園で暮らす動物は安全を提供されていますが、彼らの寿命は野生より短くなります。
安全と引き換えに判断を奪われ、それに身を悶えながら死んでいくわけです。
「飼育ゾウは野生に暮らすゾウの半分の寿命しかない」
引用
アジアゾウの平均寿命は、動物園で生まれたものは18.9年、ミャンマーの使役ゾウは41.7年だった。アフリカゾウの平均寿命は、動物園の個体は16.9年、野生では35.9年だった。国立公園内で人間に殺される個体を統計から除外すると野生での平均寿命は56年となり、動物園で飼養されている個体の平均寿命の3倍にもなる。
「人間に飼養されているゾウのほうが、野生の個体より、よく世話をされているのだからより長生きするか、少なくとも同じくらいは長く生きる、と思いがちですが、そうではなかったのです。寿命の差は甚だしいものでした」とクラブ博士はいう。
社会に哲学を押し付けられ判断を奪われたら、それはもう人とて動物園の動物と同じなのです。動物園の動物のように不幸に身を悶えながら死んでいきます。
人の社会は動物園ほど絶望的な状況ではありませんし、動物のように徹底的に管理する外力はありません。実体のない同調圧力に屈して人は自ら哲学を捨て判断を諦めているだけです。
高度な社会性のなせる業ですが、これが人類の足を引っ張り続けています。きっと高度に発達し地球を観察する宇宙人は人類がこのOSの欠陥を克服する瞬間を待ち望んでいるはずです。
宇宙人「また社会的同調圧力が高まってきた。自滅へ向かい始めている。人類はダメかもしれんね」
自らの哲学を語り、真の判断を自らに要求する
社会の経済的合理性、それはそれで必要なものとして理解しつつ、一人一人が自らの手で創り上げた哲学を持たなければならないと僕は思います。そうでなければ破滅的な結末しか想像できません。
色んな不運が人生にはありますが、それを不幸にしているのは自分自身です。
仮に不運を経験したとしても、それが自らの判断により引き起こされたのであれば、それは時間をおいて「試練」へと名前を変えます。
試練は葛藤を引き起こし、それがが哲学を洗練させていきます。
優れた哲学は人を魅了します。古今東西のカリスマは自らの哲学を語ってきました。
哲学のない人に僕は魅力を感じません。俗物は話せばすぐに霊感で分かります。
あなたが創り上げた強力で美しい哲学は人を魅了し、その人の輪が幸せを引き寄せてきます。
宗教がその好例です。ユダヤ人に代表されるように、強力な哲学は人を繁栄させます。
哲学を磨くにはまずは安全を捨て、葛藤が起こる環境へ飛び込み孤独になる必要がありますが、結果的には磨かれた哲学が人を呼び寄せ、その人の輪が真の安心と安全を提供してくれるようになります。
哲学のない人には人は寄り付きません。俗物はむしろ敬遠されます。
所謂安心を求める生き方は、結果的には安心を手放す生き方に変化するわけです。
経済的合理の名の元に一元的に解釈された安心という虚構と共に、実際は不安を抱えて死ぬのか。
それとも自らの哲学と共に、真の安心に囲まれながら死ぬのか。
僕は後者でありたいし、そこに居るだけで哲学が滲み出るかっこいいおっさんを目指します。
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