ボクシングに限らずだとは思いますが、道を突き詰めようとすればするほど自分の未熟さや欠点と向き合う必要が出てきます。自分の弱さに起因した困難とも立ち向かっていかなければなりません。
「なんて自分は弱いんだ、ダメなんだ」と悩んだ時期もありましたが、価値観と世界観が更新されたこともあり、ようやくその先の景色が見えるようになってきました。
欠点は無い方がいいし、困難も経験しない方がいい。でも生きていくにはそれらを全て避けることはできません。最後は自分で引き受けなければならないのだと理解しました。僕は僕でしかない。誰かと交換できればいいですが、それはできません。
人生はありのままの自分を受け入れる旅
嫌な面も受け入れるしかない
人生は自分自身の欠点や困難の全てを受け入れる課程であると、つまり自分自身を愛する旅のようなものなのだと”感じる”ことができるようになりました。
自分を拒絶することはできません。できないことも苦手なことも含めて僕は僕なのです。そう感じます。
頭でそう考えているということではなく、そうなのだと本能で”感じる”のです。
僕が運命や神の存在を感じるようになったのと同じようなこと。
運命や神は言語で説明することはできませんから、当然その存在について理性で考えることはことができません。しかし、目の前に誰かが居れば、その存在を感じるように、家の中に自分以外の誰かが居ればそう感じるように、神の存在は感じることができます。
それと同じように、欠点も困難も含めて僕なのだと感じるんです。
思考としての「欠点も含めて自分だ」というのは全うであり、間違ってはいないとは思います。誰だってそう考えます。以前の僕もそう考えていました。だけど、今の僕は欠点も困難も含めて自分なのだと”感じ”るのです。思考による論理的な帰結とは異なります。
何故このように感じられるようになったのかと言えば、きっと娘が僕の心を育ててくれたからだと思います。
僕には娘の良い面も悪い面含めて、全てを親として引き受ける覚悟が求められます。娘の悪い部分だけを切り離してしまうことはできませんし、もしそれができたとしても、僕はそれをしません。それは娘ではないと感じるから。わがままで意地悪な悪い部分があってこその僕の娘です。それを「直せ」なんて思いません。素晴らしい個性です。ありのままの娘を愛しています。
そうやって悪い部分も将来の困難も、「全てをひっくるめて含めて一人の人間」なのだと感じられるようになったからこそ、自分の悪い部分も認められるようになったのだと思います。
※絶対的な欠点はない、僕が観念的にそうなだけ
困難は全て自分のもの
自分の人生に降りかかる困難は全て自分で引き受ける覚悟がなければ生きてはいけません。
誰かが何とかしてくれるなんて、子供のように考えている間は辛いだけです。だってそんなことしてくれるお人よしは多くはありませんから。運が良ければ一度くらいは助けてもらえるでしょうが、二度三度とは続きません。
人生の困難は全て自分のもの。嫌な経験も全てひっくるめて人生です。何とかするしかない。逃げ続けることはできない。それならばやってやろうじゃありませんか。自ら切り拓いてやりましょうよ。できなければそれも運命。やるだけやったのなら受け入れられます。
見方を変えれば困難は本当の自分に出会うための試練と言い換えられます。そう感じることができれば困難も悪くありません。それを乗り越えることで僕はさらにありのままの僕に近づくことができますから。
欠点も困難も含めて受け入れ、ありのままの姿に近づくことが仏教の言う「解脱」なのだと僕は解釈できるようになりまいた。ブッダは決して欲求を捨て廃人になれと言ったのではありません。そのように解釈されていたとしても。
きっとブッダは強迫観念を削ぎ落し、ありのままのあなたの姿を目指しなさいと説いたのです。
「インナーゲーム」も「マトリックス」も同じことを言っていますから、これが人の社会で幸せに生きる真理なのかもしれません。
ありのままで生まれたはずの人が、死に向かい再びありのままの姿を目指すという面白いですね。
輪廻という概念の元々の意味はこうだったのかも。生まれ変わるのではなく、再び生まれたままの姿へ戻る。
「おい、お前には何が見える?(世間一般の言う)美しさか?それとも(真の)自由か?」
「サル共と一緒に暮らしてると汚れてしまう」
「寄生虫はどこにでも宿る」
「これが資本主義の末路だ」
「祈っているだけでは漏らした糞にすら気が付かない」
マリリンマンソンもこう言っていますから真理は同じなのだと思います。
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