ジャブの練習。ポイントはイメージで体を動かすこと。
鞭、ビンタ、投擲、メンコ、水切り、ハエたたき、裏拳などは、僕がパンチのイメージを伝える時に多用する言葉です。
大概は所謂パンチと整合する動作を引き出せます。
体は言葉では動きません。また、言葉は対象を正しく説明しません。
前者から説明します。
体は言葉ではなく、頭に思い浮かべたイメージで動きます。より言及するなら、体を動かすのは感情です。
ライオンに追われたら、あなたは死に物狂いで走ります。アドレナリンとノルアドレナリンが神経系のリミッターを外します。
脳をスパコン化させ、瞬時に最適な逃走経路を導き出します。また動物化した体は通常は不可能な走行、跳躍を行います。痛みは完全に入力系からシャットアウトされます。
逃げ延びた後で、体が傷だらけであること、疲労困憊であることに気が付きます。
僕が「危機感を持て」というのは、危機感だけが、ヒトの幼児性を絶ち切り、体に備えられた真の知能と体力を引き出してくれるからです。所謂潜在意識、潜在能力です。
危機感は、平和が長すぎた日本からは失われたもの。だから三十年も停滞しているのだと思います。
ほぼ全ての武士階級の男が死の危機感と隣り合わせだったから、ちょんまげをしていた未開の日本人があっという間に大国ロシアを打ち負かすまでになれたのだと思います。
偉大になる人の多くが、病気や家庭の事情などで、幼少期に死の淵や孤独を経験していることも無関係ではないように思います。サイヤ人と同じです。
強烈なストレスは生存本能を刺激し、眠っていた遺伝子を発現させるように作られているのです。きっと。
イエスは洗礼の後で、ブッダは苦行の最中に、「これ、無駄だわ」と悟りました。これが宗教の苦行に与えられていた元々の文脈だろうと推理します。
明治期や昭和初期は、文字通り殺し合いを経験した、本物の危機感を持った男がいたました。
今のような、鏡の中の自分にうっとりしたり、スマホの中の、子供か大人かも分からないような女の太ももを見て興奮するような男はきっといなかった。今はそれができる程度には危機感が足りないのだと思います。
全財産をポーカーで賭けるとなれば、あなたはこれでもかって程に対策をするはずです。止めろと他人に言われた程度では辞めません。覚醒した脳はゲームの最中にミラクルを起こすかも。
閑話休題。
とにかく、体と脳を動かすのは感情。危機感はそれ。
頭の中であーだこーだと実況しながらライオンから逃げるような悠長さでは食われます。
翻って。サンドバッグ打ちやミット打ちはどうでしょう。「この関節はこう」「このタイミングで」「ガードは高く」という言語的思考はスポーツになると急に成り立つようになるのでしょうか。
先祖の原始人は、言語を獲得す以前はどのように猛獣から逃げたのでしょうか。言葉がないから動けなかったのでしょうか。だとすれば、何故僕たちは今ここにいるのでしょうか。
言語を持たない動物はどのように狩りを行うのでしょうか。
考えるまでもありませんよね。「感情」が体を自動制御しているのです。
あなたは芸術家や数学者が、閃き(≒直感)により問題を解決する体験を聞いたことがあるはずです。
以上を総合して考えてみると、現代社会の所謂「思考」と定義された行為への違和感を覚えませんか。また、その違和感は新たな示唆を与えてくれると思いませんか。
つまり、社会全体が、思考ではない「何か」を、恐らくは単に「悶える」だけのことを、「思考」と錯覚しているのではないか、と思えてきませんか。これは僕の体験とも整合的な結論です。
冒頭の主張の後者、言語化は現象の流れを制止させ、部分を切り取る行為だから、それを正しく表して制御できない、というのは散々言及しているので割愛します。
上を他人に説明する為の例として挙げる小話を。
あなたは彼女、あるいは彼氏が欲しいと感じています。人生の中でときめいた異性の特徴を箇条書きして友達にメールします。「紹介よろしく」と。
友達はそれに整合する異性を連れてきました。
果たして、あなたがその女性を心から好きになる確率はどの程度でしょうか。初恋や一目惚れのトキメキを起こしてくれる確率は。
「条件通りだ。全く誤りはない。しかし何かが違う。ときめかない。」
こう思うのが関の山です。
言葉は感情を正確に表させないのです。
理想の「パンチ」を言語化して手に入れようとすると、どんどん問題は複雑化し、理想のパンチは遠のいて行きます。
コメント