
願望を遠ざける
普段は「言語化すると上手くならない」と主張していますが、今回は逆の「言語化しなければ上手くならない」という、前者と矛盾する主張をします。
厳密には、言語化しようとするとフローが失われて上手くいかない。しかし、言語化しないと悶えるだけで思考にならず理想は実現されない、です。
何も考えずにやれる天才は考えずに行動あるのみ。
しかし、大半は天才ではありません。
天才が何故天才なのかを理解しなければ、凡人にはその力は手に入りません。
例えば、凡人でも天才の認識を操作できるように記号化したのが数学です。
今の日本社会は簡単な計算なら誰にでもできます。
しかし、それはヒトに備わる普遍的な能力ではありません。
僕らが当たり前に計算ができるのは、大昔に、ピラミッドが作られた辺りの古代エジプトだと言われていますが、その時代に誰かが「計算」という「数学」へと繋がるという概念を整備してくれたからです。
僕らは教育システムのお陰で本来は天才だけに与えられていた「計算」を、自分に生来的に備えられた能力であると錯覚できる程度には、自然に行えます。
あなたは独自に数学の足し算やかけ算、割り算を発見できたと思いますか?微分積分や無限、0の概念は?もしもできると感じるのなら、あなたは大天才です。
正直に、僕にはそれはできないと感じます。
僕ら凡人にはきっと、「0」の発見はおろか、因果関係などの初歩的な二項関係の認識ですら難しいだろうと思います。しかし、義務教育を経れば誰でもそれらを理解し操れます。
凡人の僕らが、計算という、古代は天才だけに許された高度な認知を苦労なく行なえてしまうのは、先人達が長い年月を費やして天才だけが持つ高度な認知機能を僕ら凡人にも理解可能な形式に落とし込み、社会システムに実装してくれたからです。
まとめると。
天才が当たり前にやれることを凡人は当たり前にできない。しかし、凡人が天才に対抗しようと藻掻く過程には大きな価値がある。
計算の規則を定義した先人のお陰で凡人が天才の計算を獲得できたように、天才を定義すればそれに近づける。
些細な話をやたらと大きく広げてしまいましたので、話を戻します。

凡人が「上手くなりたい」と頭でいくら念じても上手くなりません。
「パンチを強くしたい」や「動きを速くしたい」、「ディフェンスを上手くしたい」。
全てただの願望です。
観念や願望を頭に浮かべる行為は「考える」ではなく「悶える」。時間と体力の無駄。役に立ちません。
ボクシングとは何か、パンチとは何か、ディフェンスとは何か、才能とは何か。
目的地までの道順や方向が分からないか、あるいは目的地がどこかすらも分かっていないのなら、どこへたどり着くのでしょう。恐らくはどこへもたどり着けません。同じ場所をウロウロするだけ。
技術を発展させる為には、願望を頭に思い浮かべることを止めて、何について議論すればそれが達成されるのか、を”考える”必要があります。
ボクシングが何かを知らずにそれについて話すことはできません。
以上。言語化の重要さの主張。終わり。
言語化の絶対視や感覚のみに頼るのは脆弱。大切なのはバランス(調和)。
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