最近、行動遺伝学やそれに関係する本を読み漁っています。
色んな立場から書かれていますが、どれも残酷な事実を浮かび上がらせているように見えます。
何よりも僕を驚かせているのは、知能や性格は遺伝的に決まってるという統計です。この新たな視点が僕のこれまでの経験を上手く説明してくれることが、さらに驚きを深めさせます。
僕が「自己喪失」と定義している現象の新たな解釈に繋がるなぁと。
ということで自己喪失の持論を更新します。
自己喪失と知能
「自己喪失」は、自我同一性(アイデンティティ)を確立できないままに大人になった場合に起こる、客観と主観が分離できなくなる現象です。
自己喪失の典型例は「科学」「基礎基本」「常識」という観念との同化です。
「正しい」ものを「正しい」と無条件に受け入れてしまうこと。それは、間接的にであっても他人から命令されて生きてしまうことです。
生きる意味やどう生きるのかすらも、他人から与えられたそれを無条件に受け入れている人達がいると感じています。「科学的に〜」「常識的に〜」「基礎基本は〜」というのが口癖の、それらに何もかもを明け渡してしまった人達。コロナ期間中も話題になっていました。コロナ自警団、反ワク陰謀論など両極にいます。保守リベラルと同化する人達もそう。日本人と同化する人もいます。
問題は、彼らが他人が植え付けた客観的な記号としての「正しさ」と自分の体験を通して導いた主観的な「正しさ」を区別できていないことです。
「こうあるべき」などの先入観や強迫観念に駆動され、自分の意思で行動できていないことが不幸を導いていることに恐らくは気がつけていません。心の中の自分が消えてしまっているから「自己喪失」と呼称しています。
彼らは、他人の思想や物語の入れ物として機能させられています。基礎基本や科学など。
彼らがそれに気がついていない理由は、単に危機感が足りていないからだと僕は思っていました。だからガラクタをガラクタと判断できないのだと。自分はいつか死ぬのだと自覚できたなら、本当にやりたいこと、やるべきことは限られてきます。そうやって、大人になる段階で徐々に他人の空想に付き合う時間は人生にはないのだと気がつくはずだと考えていました。
しかし、行動遺伝学を学ぶと別の残酷な解釈が与えられることに気が付きました。
大衆迎合主義の源泉
人々が常識に駆動されるのは、自分もいつかは死ぬのだという危機感を失い、楽な方へ、つまり費用の小さい方へ流れていこうとするからだと。だから平和な期間が続くと自己喪失した人が増えて、左右の大衆迎合主義者の思想の入れ物として機能させられるのだと結論していました。
しかし、こう考えることもできます。
自我を構築する為には自分と他人、内と外を区別する、つまりは関係を認識して整理できるだけの所謂「知能」と呼ばれている能力が発達している必要がある、と。
ある一定の以上の知能を持たなければ、「自分」と「他人」、「自分」と「世界」の区別すらもできないのではないか。知能が、因果関係によりその規則性を明らかにすることなら、それがある水準に満たない場合は、自分と他人、自分と世界、は異なる規則が支配する領域であると認識することができないのではないか、と。
「知能」は正規分布します。
自我の構築には、それが可能な水準を満たすだけの知能が必要なのだと仮定すれば、自我を構築できない層が一定割合でいると結論できます。
常識に駆動される役割を持たされた層がある、という残酷な結論です。群れを巨大化させて他の種族を圧倒してきた人類の戦略と言えるのかもしれません。「科学」「聖書」「貨幣」などの物語は、それを疑わない大多数のお陰で機能します。
大衆迎合迎合主義者に駆動される層は、平和かどうかとは無関係に常に存在しているということ。戦争の記憶が文化的に残されている間か、戦争を経験した世代が生きてる間は、「常識」が機能し、自我を持てない層をコントロールしてくれているので問題はありません。
「基礎基本」「安定」が大多数を駆動するように、善悪の判断ですら他人から与えられている人はどこにでもいます。だから環境に応じてコロコロとそれが変わります。職場と家庭で態度を変える人なんてその典型です。
しかし残念ながら時間と共に平和を維持していた常識は失われます。こうなると経済危機を機に各国指導者の責任転嫁レースに歯止めが効かなくなります。そのゴールは最悪の場合は戦争。
細部は荒々しいですが、現時点ではこんな風に理解します。
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