困難を自分の手で引き受ける覚悟
彼は彼、我は我
どんなに他人を羨んでも、僕は僕を辞めることはできません。だから自分の嫌いな所を責めても仕方がない。
他人もそう。
どんなに責めても、その人はその人をやめられません。だから許してあげればいい。
心は全体で一つの構造物(縁起)です。この部分は要らないなんてできません。
もしも嫌いな特徴を要らないものと切り捨ててしまったら、その別の側面としての好きな部分も同時に消えてしまいます。
例えば、僕は普通の社会人的なことが苦手です。税金や保険の事務処理は大キライで追い詰められないとやりません。金の管理も苦手。銀行口座は放置してて把握しきれていません。人付き合いもほとんどしせん。一方通行的な意思伝達になりがちで誤解を生むことも多く、気がつくと嫌われてたりします。若い頃はそれがとても嫌で他人に迎合してばかりでした。それでも上手くはいかなかったけど。
スポンサーや応援団、友達が多い選手を羨ましく思うこともあります。特に20代は彼らのようになりたいと思っていました。
思い返してみると、物心ついた頃からみんなに好かれる人を羨ましがってばかりだった気がします。
少しづつ僕の存在を認めてくれる人たちが増え始めて、この年になってようやく自分にないものを羨ましがる必要なんてなかったんだと感じられるようになりました。
僕は僕のままで良かったのだと。
日常的な雑務を全て放ったらかして、半ば世捨て人ような生活ができたからこそ、僕はボクシングに没頭できたんです。もし、僕が自分自身に普通の社会人としての行動を要求をしたら、ボクシングに費やす時間、体力、気力、金などの資本は捻出できなかったはずです。
困難を引き受ける覚悟が足りなかった
必要だったのは他人を羨むことではなく、自分の特徴が生み出す利益を理解し、その利益が要求する費用を自分自身のものとして受け入れ、支払う覚悟を決めることでした。
僕には特に後者、費用を支払う覚悟がありませんでした。
自分の特徴が引き起こす困難は全て自分で引き受けなければならないと理解しました。最近はその決意が固まってきたのを感じています。
自分が引き寄せた利益だけを享受し、それに伴う困難を他人に何とかさせようなんてのは幼児性の現れです。人生を破壊する依存心。
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