全てが可能な世界
マトリックスの最後。

これまで述べてきたように、マトリックスは社会の参加者の一人一人の「こうあるべき」の集積が、その可能性を制約していることを表すメタファー。
あるいは、一人の心の中で起こる「こうすべき」と「こうなりたい」の葛藤を描いた話。
マトリックスのルールは僕が経験してきた社会の規則性ときれいに符合する。あなたがエージェントでないのなら、あなたの経験とも符合するはず。
映画マトリックスを創ったウォシャウスキー姉妹は性転換を行っている。すなわち、それには「普通」にしているだけが困難だった彼女達の生き様が投影されていると考えられる。
彼女達が今ほど遺伝子や性同一性障害への社会的理解が深まる以前に生まれ育っていることは、社会の「こうあるべき」に、例えば「男とは」を押し付けてくるエージェントに、彼女達が苦しめられてきたことを容易に想像させる。それを克服した経験がマトリックスに魂を吹き込んでいる。
その人が経験してきた苦労から発せられる言葉や態度には、誰かの言葉を横流ししただけのそれとは異なる重みがある。この重みが魂。
誰かから聞いただけの「技術論」の横流しや「普通」「流行り」の受け売りは軽すぎて何も感じられない。
ジブリなどにもマトリックスと同様の重みがある。だからこそ、見た人の心を動かせる。
ボクシングも上手い下手に関わらず、その人の経た苦労が魂として宿るはず。



白いウサギを追え
ウォシャウスキー姉妹にとっては、普通の人には感じることすらできないような些細なバリアーが巨大な壁であったはずで、その経験があったからこそ、映画マトリックスの構想が生まれたはず。
白いウサギは寓話に由来したメタファーで、「心に従え≒自分の人生を生きろ」というウォシャウスキー姉妹からマトリックスを観た人へのメッセージ。
また、彼女らはエージェントに対して「エージェントになるな」とも言いたいはず。
最後に大切なこと。
手に入るのは「結果」てはなく「選択」。
選択により得られるのは、その人がそれを失敗と感じるかは置いておいて、失敗と成功の二通りがあり得る。
いずれにしても運命は日々の”自分の選択が”導いてきてはいる。
やる、やらないの選択肢と、その先にある苦労や絶望、後悔、栄光は全て自分のもの。誰かの所為にはできない。
モーフィアス「扉は自分で開けろ。」






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