
釣り

ヒトの生理的な反応速度から演繹的に考えるなら、ボクサーはパンチそのものを視認して避けていません。
パンチが来そうな雰囲気を避けています。
派手な技はそれ自体の華やかさに目を奪われてしまいますが、あなたがボクサーであるなら、着目すべきその準備段階です。
例えば既述のように、反応速度を所与のものとするなら、カウンターは予測に対して行われているはずで、またそうだと仮定した場合は、その予測に先立ち誘導が行われているはずだと推理できます。
別の言い方ならロマはチェスゲームをしているはずなのです。
カウンターやロマステップそのそのものではなく、その前の餌をまく準備段階を手がかりにすべきなのです。
「ガードを上げる」の準備段階は?⇒肩甲骨ロック
顎を引くの準備段階は?⇒骨盤前傾肩甲骨外転前傾


いきなり飛車角が飛び出してきたり、エクゾディアが召喚されることはありません。必ずその前には棒銀や墓地を肥やすコンポが切られます。敵の戦略を準備段階で防げない場合はゲームには負けます。
結果の華やかさだけに目を奪われると、それが起こるまでの秩序を見失い、現実に解釈を与えられなくなくなります。
あなたの目指すボクサーは魚を釣り上げる前に”どんな餌”を撒くのか、に着目するのです。仮に餌を知らないなら、目的の魚は誘き寄せられません。
あるいは視点の抽象度を高め、システムそのものを考えます。
ロマがそうであるように、一流ボクサーはボクシングがシステム化され、それ自体がカウンターという現象を包含しています。少なくとも僕にはそう見えます。
ゴロフキンのロングフック⇆ジャブの蟻地獄もシステム化された漁に見えます。
あなたの好きな技そのものではなく、それを導く”システムの全体像”に着目するのです。



ロマは相当な熱心さで餌を撒いています。強調した言い方なら、餌を撒くことが彼のボクシングであるようにすら見えるほどです。
これが妥当な解釈であると仮定するなら、これを所与のものとして、あなたはボクサーとして何の為の、そしてどのような練習に体力、時間、金を投下することが効率的なのか、が頭に浮かんでくるはずです。
必然を導く構造(システム)を逆算するのです。
「こうなりたい」という願望は目を曇らせます。「願えば叶う」は遺伝的に選ばれた個体だけに許された主張です。
生存者バイアス的に社会に保存されている主張ですが、大半には役に立たたないガラクタです。
理想を引き寄せる具体的な手順を教えるのではなく「願う」ことを教えるのはカルトだけです。
反復⇒祈り
こうなっていないか。







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