ロマの気持ちを考えます。
抽象的な話です。
隠れる
僕は、自分が「守る」時を思い出してみると、「避ける」よりは「隠れる」と表現する方が正しいと感じます。あるいは「嫌がる」です。
今回はその話。
以上の僕の感覚、ないしは一流ボクサーの観察や指導経験から抽象される規則性から帰納するなら、現時点では「ディフェンスは隠れる(≒嫌がる)」であると結論します。
より一般的に認知されていそうな話へ広げるなら。
「相手のパンチを目視して避けるのは生理的に不可能である」という話。みなさんも聞いたことがあるはずです。
平均的な反応時間は、視覚刺激の検出では180から200ミリ秒、聴覚刺激の検出では140-160ミリ秒である。
Wikipedia
パンチの速度は時速40km/h程度と言われていますから、仮に射程をミドルレンジ(1m未満)、とした場合は
40km/h=11m/s
200ミリ秒=0.2秒
0.2×11=2.2
反応する前に余裕で到達するので目視ではボコボコにやられます。
まあ、計算するまでもなく一般的な感覚としても「目視で避ける」という仮定には違和感があります。
以上から演繹するなら、ボクサーは相手の”パンチ”を見ていないのです。
とは言え、ボクサーはエスパーではありませんから、何かを見て反応しているはずです。
僕の感覚を一般化するなら、ボクサーは雰囲気を感じています。
雰囲気は恐らく、本能的かないしは経験的に蓄積されたデータから算出された確率です。
脳神経系は抽象するなら、あみだくじのような、入口が決まれば出口が決まる構造だと予想します。
すなわち、視覚などの刺激(入力)から、電気的に一瞬で結論を導出するシステムです。所謂直感が起こるのはこのような構造だからだと考えます。ランダムな入力に対して一瞬で応答するように作られている脳が、時々画期的な論理構造を出力してくれるわけです。
所謂熟慮は、ランダムな情報を脳へ入力し、それに基づく結論を複数取り出してみる課程です。
話を広げ過ぎたので戻します。
以上から、ボクサーは厳密にはパンチにではなく、その予測に反応していると結論できます。
この場合で言えば、「どこを見ているか?」という質問に対しては様々な回答が考えられますが、総合するなら「特定の場所」ではなく雰囲気を”感じている”と言い換えられると思います。
つまり、相手の表情や目線、SSC動作などから、パンチの軌道とその加速度を何となく予測しているということ。
ここで冒頭の「隠れる」という感覚の話に立ち返ります。
以上の推理は、僕がディフェンスを「隠れる」と表現することと整合的と考えられます。
つまり、僕は漠然とした雰囲気に基づいた本能的な予測を行い、それにより導かれた、「危険な確率が高い空間」から「隠れている」わけです。
僕は相手の拳が動き出すよりも先に動いていると予想できます。
これは運転中に信号や対向車、歩行者などの膨大な情報量を何となく処理できる、あるいは渋谷の交差点で、向かってくる歩行者を全て何となく躱せる感覚とも似ています。
「どうやって躱すか」などと考えていません。
従って、頻繁に聞かれる「どうやってパンチを躱すか」という言葉とそれを導く世界観は、現実とは不整合な、非合理的な発想である可能性があります。
キリスト教が物理学を導けないように、前提が間違えている場合は、そこから導かれるあらゆる結論は間違えます。
以上の視点から現行のボクシングの指導観や教育の価値観、より言及するなら大前提となる世界観を俯瞰するなら、僕は大きな疑問を感じずにはいられません。
僕達は人生の貴重な時間を通じて、一体、何を教えられてきたのかと。そして、それは一体どれだけの機会損失をもたらしているのか、と。
話をボクシングに戻しましょう。
経験ないしは遺伝により導かれる反射的な動作は、極々自然かつ合理的なものであり、否定するようなものではなく、むしろ歓迎すべきものだと結論できます。
(客観的思考で)考えるな、(主観的にどうしたいかを)感じろ。
執着(社会が与えてくる「こうあるべき」)を捨てろ(自分がどう感じているのかを大切にしろ)。
Let it be(感じるがままに任せろ)。
遡れば古代ギリシャから、挙げればキリがない程に繰り返されている主張です。この記事の僕の主張とも整合的であると解釈できます。
結論。皆さんは社会に体力と知能を押さえつけられている。他人を支配したいだけのバカにつき合うのは緩やかな自殺。自分以外は間違えている、くらいの自信を持てばきっと合理は引き寄せられてくる。
以下は「隠れる」が分かりやすいかと思います。”危険だと感じる”場所から「隠れる」。
コメント