久しぶりに手打ちの話。
手打ち打法
「手打ち打法」は、伝統的な腰を回し、腕を体で引っ張って加速させる「引っ張り打法」と対比する為の名称です。
簡単に手打ちのメカニズムの仮説を説明します。
自動システム
あなたは、食事中にお箸の動きを意識しないはず。また、ボールを投げる時や自転車を漕ぐ時、走る時、車の運転をする時もそう。
細部を意識するとむしろ動きづらいはずで、基本的には意識外の本能の自動制御に任せているはず。
あなたの「こうしよう」「こうなりたい」という漠然とした「感情」に基づいた動きが自動的に引き出されます。
お箸の動き、あるいは車の運転を想像してください。
超繊細な動作です。
指でお箸を操り豆をつまむ簡単なことを、超高価な精密ロボットはできません。
自動車で直進するだけでも、あなたは無意識にアクセルペダルとブレーキペダル、そしてハンドルを忙しなく操作しています。そして、ほとんどミスを犯しません。
「お箸の動作や運転を言葉で説明しながらやれ」と言われても、あなたには不可能でしょう。聞き取れないレベルの早口が必要です。
人体には、顕在意識に知覚させずに、物事を正確に実行するシステムが備わっています。
あなたは「お箸は練習したよ。だからできるんだよ」と思うかもしれません。
しかし、例えば、ロボットにお箸を使わせるとなると、それにはお箸の加速度を検知し、それを元に手元の重心を繊細に調整し、かつ摘んだ物を壊さない程度に指を締め付ける操作が必要となります。
ロボットが二足歩行で歩いたり走ったりが段差を乗り越えたりが難しいのは、その計算資源が膨大に要求されるからです。
お箸の習得であなたは以上のような計算を行いましたか。むしろ何も考えなずに自動システムに任せたのではないでしょうか。顕在意識であるあなたは、「意識的に何かした」と錯覚しているだけで、何もしていません。顕在意識は自動システムの傍観者です。
お箸の習得に要求されたのは、漠然とした「お箸を使おう」という感情だけ。
お箸の使い方を覚える子供は、指の関節の名称も、その解剖学的生理学的力学的法則も知りません。それでも精確、かつ合理的な方法を見つけ出します。
ボクシングや武道を覚える時のように、鏡の前でお箸の操作を練習した人は居ないはずです。そんなことをするまでもなく、動作の正誤は主観的に知覚できます。むしろ形に拘ると、合理を引き寄せる情緒が機能せず非合理を繰り返す羽目になります。
ボクシングになった途端に、何故鏡の前で練習する必要があるのでしょう。
走ることは物心ついた頃にはもうあなたにはでき、それを練習した自覚もないはず。既述のように、二足歩行での走行は高度な運動です。
何故、ボクシングになった途端に意識的な反復を繰り返して動作を覚える必要があるのでしょうか。
僕はこれらの非合理がまかり通るのは、信者の心を自由にするはずの宗教がカルト化し、人々の理想を実現する為の貨幣経済というシステムが拝金主義に成り果てるのと同じ論理展開だと結論しています。リスクを嫌い、何かに依存しようとする幼児性を利用した搾取のシステムです。
後述しますが、これは社会構造の上部に位置する人達が、下部に位置する人達から搾取する為に構築した、非合理な文化的構造です。目的は社会を良くすることではなく、上部構造の既得権を守ること。構造の上にあぐらをかいて努力を放棄するなどが典型。
閑話休題。
技術習得は個々の関節の動きからではなく、感情とイメージを手がかりにすべきだ、という結論です。
椅子に座って「悶える」行為を「思考」だと洗脳し、国民の知能を劣化させて奴隷として管理する為の義務教育に認識が歪められていますが、以上がヒトの自然な学習だと僕は結論します。
せっかく久しぶりに手打ちの話をしたので、もう少し深めます。
引っ張り打法は、体幹で腕を引っ張って加速させようとする認識を指します。厳密には、引っ張って加速させているつもりでも、手打ちになるはずです。
手打ち打法は、腕力を床に反発させて拳を加速させる原理を意図して習得された技術のこと。
厳密には両者は同じものです。
ボクサーの頭の中の差を指しています。
一流のチャンピオンが、自らの技術を誤認するようなこと。
引っ張り打法は、ナルト走りのように、体を傾けて倒れるようにして体を加速”させよう”とします。
手打ちは、100m短距離決勝のように、床に反発させて腕を”振ろうと”します。
スプリンターは、体幹をブラさず、腕と脚が別の生き物のように動いて、すなわち効率的なエネルギーの交換により末端を加速させて走ります。
体幹がブレるとエネルギーが色んな方向へ分散し、推進力への変換効率が落ちるので、スピードは上がりません。
ベテルビエフの手打ちが破壊的になる論理。
また、前傾し重心が股関節に乗らない場合は床を骨で踏めません。体が柔らかいゴムボールのような構造になります。関節に床の反力が吸収されてしまい推進力を失います。
ナルト走りでは、構造的に力を受けられないので速く走ることはできません。
ボルトの走りは人体の必然。なるべくしてなっている。構造的にそうなっている。ボクシングも同じ。
日本人の多くがナルト走りなのは、腸腰筋前鋸筋小胸筋などの筋力が生来的に弱いからと考えられます。黒人スプリンターとの差は3倍との研究もあります。
腸腰筋が弱い場合は重力を上手く床反力へ変換できないので、体を前へ倒すような体重移動で加速させるしか手段がなくなります。日本人にナルト走りが多い理由と考えます。
腰が痛い人の歩き方がおかしくなる論理で、弱い部分をかばおうとした結果、走りやボクシングがおかしくなる、ということ。
ここまで読めばやることは明確に頭に浮かぶはず。
肩甲骨ロック
前提として、長岡は長濱式のトレーニングを何年も積み重ねています。
上記の、僕が手打ちを導出できるであろうという前提の獲得に何年も取り組んでいます。
肩甲骨ロックとは肩甲骨の外転前傾を保つことを指します。
まずはGGGやタイソン、ジョーンズ、GGGの骨格を見てください。肩が内側へ巻き込まれ、かつ肩甲骨が背中に覆い被さるようになっています。横から見ると脊椎の湾曲した楕円形の体です。
彼らの特徴はボクサーに限らず、汎ゆるスポーツに普遍的に見られる規則性です。法則と呼べるかも。
彼らの骨格を僕の周りのボクサーと比較した場合は明らかな違いがあることに気が付きました。
調べながら、まずは腸腰筋による因果関係の説明が最も妥当だと感じました。
そこから飛躍させると、一流の腕が内旋しているのは、広背筋と大胸筋の構造に由来していると推理できます。
また、それは原始時代に槍などの長軸を持つ物体にジャイロ回転を加えて投擲し、その飛距離を稼ぐことが生存に有利に働いたからで、自然淘汰がそれを上手く行わせる遺伝子を選別したからだろうと推理しました。
また肩甲骨を外転させた場合は、内転の場合と比較すると上腕と肩甲骨の窪みが噛み合わさり、構造的に安定し、末端へ力を伝達する効率が高まります。
四足歩行動物の胴体が楕円形で、肩甲骨が下を向き、前脚で体を支えられるのと同じ論理。
また、大胸筋のねじれは、投擲動作でのリリース直前の姿勢で張力を高める為だと推察できます。
上腕三頭筋は肩甲骨の前傾により伸張されるようになっています。これもリリース直前に肘の伸展能力を高めると推理できます。
以上から、肩甲骨ロック(≒肩甲骨外転前傾の保持)が腕のスイングの勢いを導くと結論しました。
補足。
時々、肩甲骨を内転から外転へ動かす運動エネルギーがパンチ力を高める、という主張を目にします。仮に以上の僕の推理が妥当だとするなら、それはむしろパンチ力を弱めます。
背屈ロック
手首を背屈させると、構造的に指が握られます。恐らくは猿だった頃の名残です。猿は指で握るのてはなく、構造に握らせています。
現役だとカネロにその特徴が現れています。ムエタイの強い選手もそうですね。
猿の名残は、これまた槍投げに利用されたのだと推理します。
投球時のボールの握りが分かりやすいと思います。ボールは無意識化で握られ、リリース時に自動的に指が開きます。
この難しい操作を生まれたばかりの子供ですら簡単に行えるのは、遺伝子レベルでソフトウェアとハードウェアにプログラムされているからだと思います。
オーバースローを行える大型の哺乳類がヒトだけである事実とも整合的です。
つまり、槍を投げる時の形で、すなわち親指と中指、人差し指で握るとスイングの勢いが増すように体が設計されていると言うこと。
ゲンコツと背屈です。この時に腕のスイングが最適化されると推理します。対偶をとれば、握りが悪いならパンチのスイングも悪くると導けます。
背屈とゲンコツで握る場合はGGGのようなスイングに、そうでないならヘイニーのようなスイングになると考えられます。
肩甲骨平面
小胸筋前鋸筋が強い場合は、すなわち肩甲骨ロックができる場合は、必然的に肩甲骨平面内を腕が滑走します。
肩甲骨の窪みが上腕を支え、大胸筋の収縮力を効率的に伝達するので、パンチの勢いは高まります。
図を見ればわかるように、肩甲骨平面は肩より下にあります。
従って、直立した姿勢だと高い打点を導くことが困難となります。
高い打点を導く為に要求されるのは、大腰筋の収縮による脊椎の側屈回旋です。脊椎を側屈させて体を傾けることで、高い打点を実現させます。
この推理は破壊的なパンチを打つ選手の特徴とも整合的です。
ブッ殺すと思ったなら…
次に筋力発揮のイメージ。
大半のボクサーは「せーの」で打ちます。恐らくは元々が弱い骨格だから、手打ちができない故に、「引っ張り打法」へ必然的に収斂していったと考えられます。
骨格が弱いから弱い運動のイメージを獲得する自己強化です。
一方で、生来的に骨格が強い場合は、合理的なイメージが引き寄せられます。すなわち、合理が合理を引き寄せる自己増殖です。僕はこれが天才の持つ論理構造であると予想します。”具体的な何かが”ではなく、自己増殖の循環が天才です。
なので、長岡のように短いタメでパンチが打てない場合は、それを頭で念じ悶えるのを止めて、以上の前提が達成されているのかを見直してください。
疲れたので今日は手打ちの話は終わります。気が向いた時に続きはやります。
非合理な技術の発生源
何故、引っ張り打法のような非合理が発生するのかの仮説です。
社会構造の上部の既得権者は、構造の下部の者たちが、そのシステムのネットワークを外へ広げるのを恐れます。それは、その既得権構造を揺らがせるから。
例えば、明治維新。
幕府が改革を嫌ったのは、封建的な社会構造の上にあぐらをいて、その下の者から搾取する楽さを選んだから。
「殿様だぞ!」に満足し、努力しませんでした。
ネットワークを閉ざし、その外からエネルギーを調達することを止めていた故に、幕府は人口の増加や黒船襲来、産業の発展に伴い増加した社会運営費を賄えなくなりました。
幕府は下の者から搾取することで、なんとか自らの既得権を保ちました。しかし、そのせいで下級武士や庶民は飢えます。それは憎悪として社会に蓄積され、倒幕のエネルギーとなりました。
これは社会のフラクタル構造になっています。
雇われトレーナー業の後で、ボクサーの能力を向上させる為の労力を払っても、その時間に賃金は発生しません。
当然結果を出せば、後でその努力は報われるはずですが、リスクとコストを嫌う本能は、それを避けさせます。
すなわち、本能はそれらが発生しそうな経路を認知させません。可能性に盲目となります。
その性質は年功序列や伝統を守らせる動機を導きます。それを保守することに血眼になります。
伝統を検証し、環境に合わなくなった部分を取り除くだけですが、本能はそれをさせません。
「通貨」がつい最近作られただけの、簡単に壊れる概念であることを忘れ、それに魂を売るような人を想像すると分かりやすい思います。依存心が認知能力を失わせるのです。
個人の、努力したくない、楽をして認められたい、楽して偉い顔をしたい、という依存心が認知能力を劣化させ、美しいはずの文化を腐敗させます。
貴重で重要性の高い日本の価値観を存続させる為にも、すなわちコツコツと積み重ねる努力を美徳とする価値観を守るためにも、既得権にあぐらをかいた連中には退場してもらう必要があります。
ガラクタはガラクタです。さっさとゴミ箱に入れないと、社会はその費用を賄えずに潰れます。誰の利益にもなりません。
また、自らがそうならないように戒める必要もあります。それは自分自身を批判的に見ること。
※僕は伝統などの文化が不要だとは思いません。むしろ大切にすべき美しいものだと理解しています。故に既得権化させるべきではないとも考えます。
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