バカの法則その三

よもやま話

バカの法則はその三へ突入。

とは言っても「一面的な認知≒バカ」と、立体的な構造の一面だけを切り取って話しているだけなので、厳密には同じ話になっています。お気づきとは思いますが。

例えば、仏教と数学は認識の話であり、それらは、それを記述する言語と視点が異なるだけだ、と僕は考えています。

結局のところ、人類は認識の規則を掘り下げているだけ故に、古今東西には同じ言葉が残されてしまうわけです。

「まくとぅそーけー、なんくるないさ」は「人事を尽くして天命を待つ」や「為すべきを為せ」と同義です。

世界には様々な言葉がありますが、結局は認識の規則に由来した「はい、いいえ」「存在、非存在」「真、偽」「1,0」という認識の枠組みがあります。これはすなわち、異なる記号を持たされただけの、実質的には同じ規則による現実の説明と言えます。

仏教と数学は、記述する言語が違うだけの同じ話。だから似ているのだと僕は結論しています。

関係によって存在が定義される = 縁起
前回の動画の続きが昨日アップロードされていました。見てみたら僕の考えと似ている、というか同じでした。 関係により存在が生じる 縁起 上の動画では人の記憶を説明しています。記憶は細胞単体に記憶されているのではなく、細胞と細胞の関係によって定義...

結局は、認識世界にある、ある論理構造の変化を追跡しているだけだから、古今東西で同じ結論へ行き着いてしまうのです。

バカの法則は、立体的な「バカ」という論理構造の多面的な解釈です。立体的な構造を多面的に捉え、それが持つ真の構造を抽出しようとしています。

御託が済んたところで本題へ移ります。

真(まくとぅ)そーけー なんくるないさの真意
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認識の一般化
集合論やろうと思って入門書まで買ったのに。脱線に次ぐ脱線で全く意図しない方向へ走りだしてしまっています。 証明の正しさとは何かってことで数学の定義する正しいを見ていきました。演繹、三段論法と推論規則などなど。 納得したと思ったらまだモヤモヤ...
バカの法則 その二
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バカは間違いを認めません。なんなら、「間違いを間違いと認めることは愚かなことだ」とすら思っている節があります。他人の失敗をあげつらって勝った気になっているようなことを想像してください。

根底には、科学や常識を絶対的な何か、すなわち「真理」だと思っている誤認があると考えます。

仮に間違えないのが賢者であるのなら、科学も経済も発展はなかったはずです。なんなら火の道具化すら起こらず、未だにヒトは薄暗い洞窟で暮らしていたでしょう。

つまり、バカが信じている間違えない神、すなわち正解、は間違いを恐れない人達が生み出しているのです。が、奇妙なことにバカはそれを知りません。科学(常識)と違うことを許しません。

数学者こそ数学を疑い、経済学者ほど経済を疑っているはずです。でなければ発展は起こりません。

義務教育で、人類の失敗と改善の歴史を教えられたはずなんですけどね。教育の方法とその価値を見直す必要を強く感じます。

SNSやYouTubeで頻繁に見られる、他人の失敗をあげつらう愚行。それなりに地位のある人までも。

SNSで他人の行為を非難する大人を子供達はしっかりと見ています。そして、彼らはそれを学びます。

失敗すれば自分も非難される、または失敗した人を非難して良い、と。
彼らが成長し大人になった社会は、失敗を恐れるあまり発明はありせん。そしてそれが引き寄せる貧しさの責任を互いに押し付け非難し合います。

あ、もう起こっているか。

このように、バカなおっさんの愚かな認識は文化として社会に保存されます。
そして、それはおっさんが老いて役立たずになった時に牙を剥きます。

しかし、バカはこのメカニズムを認知できません。自らの手で自らの足場を破壊していることに気が付けないのです。

「尊敬しろ!」と言うおっさんが尊敬されないようなこと。

仮にあなたが他人の失敗を攻撃したとすれば、それは「失敗は損」という認識として心の奥底(阿頼耶識)に格納され、あなたの性質を形成します。

そして、あなたが何かに挑戦しようと感じた瞬間に、その認識は顕在化します。
「失敗は許されない」と。
ブッダが「阿頼耶識」と定義した、ヒトの認識システムです。

逆に、あなたが失敗した人を激励したのなら、その認識は阿頼耶識に格納され、あなたが何かに挑戦しようとした時に顕在化します。「死ななければ問題はない。挑戦は社会から歓迎されている。」と。

大人は、ブッダほどに厳密ではないにしても、この認識システムを成長の過程で何となく知覚します。「言葉(行為)には気をつけろ」と祖父母や両親にキツく言われた記憶が皆さんにもあるはずです。

すなわち、大人は自分とは無関係の他人の行為を非難しません。それが前向きな挑戦であるのなら、それが失敗に終わったとしても、その行為を歓迎しなければならないと感じるはずです。

その他人へ向ける自分の感情こそが、人生を高みへと引き上げてくれることを心では感じられるからです。

しかし、認知能力(≒知能)の弱さなのかなんなのかは結論できていませんが、バカはこの仕組みを認知できていないかのような振る舞いを見せます。

自らの行為は反射して跳ね返ることを知りません。親にもそれを教えられなかったのだと仮定すれば、代々バカ。そんな家系なのだと思います。

ひ弱な認知能力は遺伝する、と仮定するなら本当に残酷な結論が導けます。先祖代々で挑戦を嫌う性質を受け継いでいる故に、挑戦を好む性質を授けられた人達とは住環境が異なりすぎて出会えません。いつまでも挑戦を嫌う性質が遺伝子に保存されてしまいます。故にいつまでも這い上がれない。奴隷のまま。

この演繹が妥当なら、生まれが全て。そしてそれは自己強化されると言えます。残酷なシステムが人類を支配していると結論しなければなりません。

しかし、仮にこれを信じるのなら、それは僕やあなたの阿頼耶識に格納されてしまいます。

僕は挑戦者の立場として、全力で以上を否定しなければなりません。

このように、バカを定義することは自分を戒める方法でもあります。

帰納と演繹と推論の妥当性
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この記事を書いた人

第41第東洋太平洋(OPBF)ウェルター級王者
元WBC世界同級34位
元WBO-AP同級3位
元角海老宝石ジム所属

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