公理と証明と認識

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公理と証明と認識

この定義は発想が面白く、また根底にある考え方が有用だと感じたので共有します。

これは極めて抽象的な文なので、「直線」を「親子関係」、「点」を「親」「子」と文字を置き換えても文が成立します。

抽象度を高めて共通項以外を削ぎ落とした場合は、点と親子、直線と親子関係は同じ概念として扱えます。
この文はホモ・サピエンスの、要素と要素の間に意味を見出す「認識」の規則を抽出し、そして、その規則性のみに着目することで、言葉の具体的な意味を捨像しています。つまり、主語と述語の接続関係のみで「線である」「点である」が定義されています。

点と線がある。
点と点の関係が線である。
その中の唯一の関係が直線である。

単語の持つ具体的な意味は捨像し接続関係のみに着目してください。でないと混乱します。
この場合、1行目は単に「何かしら」が「ある」と、つまり認識ができると宣言しています。

僕達は何かを具体的には、つまり「確かに、厳密にこれは椅子だ」とか「遺伝的〇〇関係を持つ□□がいる」とは認識しません。漠然と「何かがある」「誰かがいる」とだけ識別します。
試しに「椅子」を材質や形状、重さ、大きさなど厳密に定義してみてください。

以下は上の定義を身近な椅子に置き換えて説明してみます。

椅子には様々なデザインがあるため、あなたの定義から漏れ出る椅子もこの世には沢山あります。では、それらを「椅子」と認識しないかと言えばそうではありません。抽象化して、なんとなく「椅子だ」と認識します。

椅子を定義するなら具体的な材質や形状、大きさなどは捨像され、ホモ・サピエンスが「何かがある」と感じられる、対象の「何か」だけが抽象されます。概念を定義するには、「何か」と「何か以外」の関係だけを抽出し定義するしかないと思います。それ以外ができるのか試してみてください。

椅子を要素に分解し、ホモ・サピエンスが「何か」だと感じられることだけを抽出します。

単純に「背もたれ」「脚」「平板」「人」という要素に椅子を分解します。

「脚」「平板」「背もたれ」「人」がある。
脚の上に平板がある。
平板の上に背もたれがある。
それらと人が関係を持っている。

この抽象的な定義は車や鞍を装着し馬も対象も包含します。

さらに、ここから脚などの単語の社会的かつ具体的な意味を捨像します。この場合は椅子は☓☓、平板は〇〇、背もたれは△△、人との関係は□□と記号に置き換えられます。

具体的社会的な意味を捨像した場合に残されるのは抽象的な要素間の関係の規則だけです。

この場合は、「要素同士の線形な接続」だけが抽象されるのではないかと思います。

それは
A→B→C
という規則性です。「椅子」から、含意の接続関係のみを抽象しています。

従って、この場合は線形の認識であれば全てが「椅子」です。因果関係や数学なども椅子と呼べます。後述する赤ちゃんの認識は椅子とは呼ばないかもしれせん。

上の「線」や「直線」の定義も同じように「関係」以外を捨像し、要素を接続し意味を持たせられるなら「線」、さらに、その中で唯一の関係を「直線」と呼ぶわけなので、親子関係も直線と呼べてしまうわけです。

線形の認識

「点と点の間にあるのが線」。

抽象すると「要素と要素の間に関係をみいだせる何か」と変形できます。

この定義は便宜上に「点」「線」を用いていますが、「○×の△□にあるのが☓△」と社会的に意味を持たされた言葉の意味を取り除くこともできます。この方が混乱は少ないかもしれません。

この文のように、記号と記号の間に現われるホモ・サピエンスが見出せる何かしらの規則を、つまり、ホモ・サピエンスが「何か」だと認識できる対象であるなら「線」と呼べます。

ぶどうのみかんにあるのがレモン。
パンの牛乳にあるのがお母さん。

でも良いのです。
ホモ・サピエンスが「何かある」と感じられる時の”認識≒言語の規則”だけを抽出しているから。

文が具体的に有している意味は捨像され、記号としての主語と、助詞である「の」「に」「が」に持たされた方向性、またその方向性を修飾する「であ・る」という助動詞の関係、つまり、文=言語の規則性、もっと言えばホモ・サピエンスの認識の規則以外は捨像されたものを表しているのです。

まとめると。

ホモ・サピエンスは因果関係という線形の強力無比な認識を原始時代に獲得した。

僕達の先祖は、遺伝的にそれが強化される方向へ舵を切った。

故にその延長線上に認識≒言語が構築されている。※線形に認識できないものは言語化されない

「はがをのにへ」などの助詞は「A をBへ」という風に主語述語関係の方向性が見いだせる。
助動詞「〜である」は対象を修飾すること。

僕達は、自覚しませんが、言語≒線形の認識、に埋め込まれた座標とベクトルを駆使して現実を理解しているわけです。

言語を獲得する前の赤ちゃんは線形の認識は苦手だと思われます。だから、脈絡なく泣いたり、わがままができます。

成長し言語能力≒線形の認識が発達すると、自らの認識=マトリックスに囚えられるので、脈絡のない行動はできなくなります。

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Die Hard – ダイ・ハード
この記事を書いた人

第41第東洋太平洋(OPBF)ウェルター級王者
元WBC世界同級34位
元WBO-AP同級3位
元角海老宝石ジム所属

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