なぜ社会はガラクタで溢れるのか

よもやま話

最近は世の中に溢れる常識について考えることにハマっています。
と言うのは、「何故、人の可能性を縛り付ける不毛さが普通に受け入れられているのか」と感じるからです。

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認識の中央値=弱者の認識=常識

思うに、「常識」とは弱者の認識です。
例えば「基礎基本」。
ハメドやメイウェザー、パッキャオ、タイソンなどの歴史的な結果を残しているボクサーを見てください。彼らは明らかに常識=基礎基本に反しています。

仮に基礎基本が競技力の向上を導く前提であるなら、彼らは何故そうしていないのでしょうか。

礼儀作法や礼儀正しさが本当に成功に必要なのだとすれば、エジソンにスティーブ・ジョブズやイーロン・マスク、勝海舟や織田信長などの後世へ甚大な影響を残した思想家、発明家、起業家が傍若無人に振るまうことを許されるのは何故でしょうか。「礼儀正しさ」が成功を導く妥当ななし条件だとすれば、上記の人達の社会的な成果とは矛盾します。

僕の本能は、何かがおかしいと強く訴えてきます。

常識≒弱者の認識

「知能的な強者の持つ、解像度(抽象度)の高い現実の認識は弱者には理解できない」と仮定するなら納得のいく結論が導かれてしまいます。如何に妥当性の高い主張であったとしても、大多数には天才のそれが理解されない故に、社会には保存されないだろうと予想できます。

ブッダやイエスの思想の根底にある肝心要の哲学が抜け落ちてカルト化するようなこと。念仏を唱えれば救われるのだと、むしろ彼らの嫌った解釈が与えられてしまうようなこと。

数学の論理的な推論手続きという肝心要が抜け落ちて暗記カルト化するようなこと。教科書の念仏を唱えて救われようとするようなこと。

基礎基本カルトもそう。妥当性ない結論を養護するには「天才」という概念の創造が必要となります。それで例外を全て処理してしまえばあら不思議!基礎基本は正当化されます。基礎基本という枠組みをこしらえてその中でのみ競わせれば、矛盾はその外の世界、例えば海外でしか起こりえません。

これは礼儀正しさなどの日本式の価値観全般に一般化できます。

腐敗の原理の長濱説

常識という集合知は、弱者が導いた彼らが理解できる程度の結論であるか、または強者の結論を弱者の視点で解釈した誤解であろうということです。

結論。常識には現実における合理性は何一つない。

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Die Hard – ダイ・ハード
この記事を書いた人

第41第東洋太平洋(OPBF)ウェルター級王者
元WBC世界同級34位
元WBO-AP同級3位
元角海老宝石ジム所属

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