幸福論 その二

よもやま話メンタル

そのニ。
その一では人類の認識の原理故に「幸福」を定義し、それを目的とするとそれは達成されないと話しました。この解釈を深めた現時点における僕の幸福論の結論をお話します。

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多くの感情を味わいそれを共有できること

思うに、そもそも、楽しいことだけを幸福と、また嫌なことだけを不幸と一括り定義することことはできません。
全てが人まとまりとしてそれらは発生してくるものだと僕は捉えています。

何不自由のない大金持ちの息子が、大人の敷いた安全なレールの上を走ることに退屈を感じられるように、または一度地獄を味わっているからこそ、他人から受ける些細な優しさに幸福を感じられるように。

詰まる所、幸福とは様々な感情を味わい、それを他人と共有して笑い話にすることなのだと僕は感じています。

例えば何かに挑戦する時。
その目的は成功か失敗かではなく、その過程にある様々な感情を味わうことです。
そう捉えられたら、行動へ移すことを恐れる必要はなくなります。

好きな女性へのアプローチを想像してみてください。
その人を手に入れられるのかどうかではなく、交際できるにしろフラレるにしろ、その結果や過程で味わう様々な感情にこそ、人生を豊かにする財産があるのではないでしょうか。僕はそう感じます。フラレたり相手にされないのも楽しいですよ。悲しいほどに相手にされないからこそ、それは他人を魅了する笑い話として僕の人生を豊かにしてくれます。

逆説的には、その人をただただ指を咥えて眺めていることこそが不幸だと言えるのかもしれません。

ボクシングもそう。
スパーリングや試合で感じる恐怖こそが生の実感なのだと楽しむことができれば、自然とそれらは消えていきます。減量で感じる苦しさですら、死んでしまえば味わうことのないものなのだと感じられたら愛おしく思えます。

恐怖ですら、生きている間にしか味わえないのなら、一切を無駄にせず心の底から全力で噛みしめるべき感情なのだと、それを愛おしく感じられませんか。

自らの挑戦に金や時間を出し惜しみする自分の矮小さを感じること、そしてそれを克服しようと藻掻く過程で何かを感じること。それこそが、人生における真の財産なのだと僕は感じています。

人はいつか死ぬ

死の床に着いた僕の心を支えてくれるのは、きっと他人でもなければ物質的な豊かさでもないだろうと予想します。ましてや銀行口座の数字や他人からの評価なんかであるはずがありません。それらはあの世では役に立ちませんから。

あの世に持ち込めるもの、そして死の淵に立つ恐怖を和らげてくれるもの、それは僕が築き上げた哲学であり、人生の満足感とそれに付随した思い出だけだろうと思います。

死を前提とするなら、本当に大切なものや護るべきものは限られていきます。

楽園を目指した瞬間から、実際には楽園にいる、というのが僕の幸福への現時点での結論です。

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瞑想のやり方

Die Hard – ダイ・ハード
この記事を書いた人

第41第東洋太平洋(OPBF)ウェルター級王者
元WBC世界同級34位
元WBO-AP同級3位
元角海老宝石ジム所属

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