「十二人の怒れる男」は陪審員制度を、もっと広く捉えると民主主義が妊む危険性を啓蒙しています。
一人の男の疑念が、他の十一人の合意をひっくり返し十八歳の少年の命を救います。会議室において白熱した議論のみが展開されていきます。
同調圧力による合意が常に正しい保証はありません。
「世界でたった一人だけが正しく現実を認識しているかもしれない。もしも、その意見を無視したら残りの全員が損失を被ることになる。だから、無視をせず話だけは聞いてみよう。」
民主主義は多数派による暴力ではないはずで、既述の高潔さが常に多数派に要求されるはずです。
イエスやニュートン、ダーウィン、キング牧師やアリの主張が一夜にして人々の認識を覆し、世界を一変させてきた歴史的な事実があります。
毛皮も火も車も飛行機も数学も。同調圧力を無視する愚か者から始まりました。もしも常に集合知が正しいのなら、僕たちはまだ原始人のままです。
集合知が間違えることがあるからこそ、社会はそこに住む個人に自立を要求しなければなりません。
欧米において論理的な議論やデモ、個人の自己主張が重要視される理由は歴史から読み解けます。
それは逆に、日本において非論理的な感情論への同調が好まれ、自己主張で和を乱すことが許されない理由を演繹してきます。
欧米では、市民の力によって封建制という旧秩序が破壊されました。
日本は、特権階級である武士同士の戦いで終わった明治維新しか経験していません。たまたま近代化していた欧米により民主制へ移行させられました。
欧米から与えられた、つまり突如として出現した文化である為にそこには文脈が伴っていません。
概念としてはみんな知っています。
が、それを醸成した歴史的な記憶が文化として保存されていないので、それを肌で感じることができないんです。
黒板で民主主義を学んだとしても、それ以外が封建制のままなら、学習の効果は極端に薄れます。
例えば、指導者が一つの方法を強制するような日本のボクシングジムのやり方は民主主義ではなく専制主義なのです。義務教育や家庭における意思決定も先生と親が行います。会社の年功序列による上意下達も典型。
ジャングルに投票所を設置しても民主主義にはなりませんよね。
概念としてのボクシングは知っていても、実際に殴り合いをしてみないとそれがどんな戦略性を求めるゲームなのかは理解できません。同じようなことです。概念としての民主主義は知っているけれど、実際にはそれが根付いていないから投票の価値が分からない。
リベラルと保守の名前を知っている人は多いとは思いますが、それがどんな思想で、どう成立したのかを知る人は僕の周りには殆どいません。それは年号を覚えることと変わらず、試験以外の役には立たない知識です。
良くて減税や財政拡大を主張するポピュリストを歓迎する程度です。
何故アメリカは民主党と共和党が代る代る実権を握るのか、それらの違いは何なのか。何故日本は自民党一党独裁で野党が機能しないのか。
一人一人の
「社会はこうあってほしい」
という主義主張や思想が欠けているからではないかと感じます。
経済的、精神的、言論的自由は与えられるものではなく自らの力で守り、そして時に戦って奪う必要のあるものです。残念ながら日本にはその歴史的は文脈がない。これから作られるのだと思います。
自らの主張とそれを貫く強さを持つ個人の集合でなければ、民主主義は成立しません。
自分以外のみんなが間違えているかもしれないという社会に住む個々人の疑念が発展を呼ぴます。
「十二人の怒れる男」は啓発的な映画です。
根本的な民主主義のレベルが違うと感じさせられました。
個人レベルの主張が可能となったSNS社会だからこそ、また、経済的かつ社会的な破滅をもたらしかねないポピュリストの台頭を防ぐことが求められる環境になっているからこそ、議論の大切さを啓発し同調圧力に屈しない個人が求められていると思います。
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