凝視と感覚的記憶と自動システム

よもやま話運動理論

以下のインスタで説明しているように、記憶には「言語と映像」のような、僕らが直感的に想像する、所謂記憶に加えて、僕らの直感には反する感覚的記憶があります(長濱説)。
運動の記憶、身体の記憶、感覚の記憶と色んな表現が思いつきますが、身体に保存されている情報は映像や言語だけではありません。

僕ら大人は高度に発達した言語を操り論理を組み立てる、「言語による思考」に慣れ親しんでいる為、刹那的、動物的な思考に鈍感です。

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「今」に対応する継ぎはぎの思考

僕は娘を観察していて「不思議だなあ」って感じることがあります。
その一つが彼女は一貫した論理で動いていないように見えることです。
刹那的な思考が継ぎ接ぎされているように僕の目には映ります。

積み木をしていたと思えば次の瞬間には飽きてどこかへ走り出す。そして視界に僕が入った途端に甘えてくる。

娘(子供)は僕ら大人とは現実の認識が異なるのではないかと考えています。大人は「過去→今→未来」といった線形な世界観、つまり「過去からの今」、「今からの未来」のような因果や予測で成り立つ「今」を生きていますが、娘は違います。
時間の概念を持っていない為、過去や未来は存在しません。
娘のいる世界には過去の因果や予測が存在せず(徐々に姿を現しているが)、あるのは「今」の連続「今→今→今」です。
この表現で伝わっているか不安ですが、続けます。

娘はその瞬間に感覚器官から入力されてくる情報に対して、反応し思考しています。
だから行動の論理に一貫性が見いだせないのです。
ただ、それは思考していないというわけではありません。刹那的な継ぎはぎの思考が連続して起こっています。
そして、これこそが運動時に求められる思考です。
動物的とも言えるでしょう。

彼女の行動が上記のように継ぎはぎになるのは、彼女がまだ、線形な論理である言語を持っていないからです。
「寂しい」とか「恐いとか」抽象的かつ原始的な「思い」だけしか頭の中に残すことができないから、その思いに応じた刹那的な行動が選択されます。
構造的にそうならざるを得ないんです。
少なくとも僕にはそんな風に見えます。

結論、自動システムの起動には凝視だけでなく強烈で前向き「思い」が必要。
後ろ向きな「思い」を抱えていたら、後ろ向きで刹那的な行動をとり、前向きな「思い」なら刹那的で前向きな行動をとります。

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