人の知能の長濱説
所謂知能はIQと呼ばれます。
図形の規則性を導くテストがイメージしやすいですね。
図形の変化を抽象化して、その規則を捉える能力を測っているのだと思います。人が生活しているマクロ空間は因果関係を用いて説明できるので知能を測る方法としては妥当な気がします。
他には、物事は要素と要素が複雑に絡み合って起こるので、脳の短期記憶容量が大きいほど迅速かつ合理的な結論が可能になるはずです。
短期記憶装置容量が大きいほどスマホはサクサク動かせます。
で、人の短期記憶の容量は、七不思議、七福神、ラッキー7、七つの大罪、神世七代など、七にまつわる言い伝えが多いことから、この辺りが限界容量の平均値なのではないかと僕は予想しています。これ以上は限界の容量を越えてしうが故に作られても人々の記憶に残らずに消えてしまう確率が高いのだと。偶に平均値を大きく超えた短期記憶容量の保持者が生まれて、複雑に絡み合った現象を説明します。所謂天才ってやつ。
記憶容量が七つなのは、人が前、後、左、右、上、下、中心で空間を認識するからだと思います。空間認知の回路を短期記憶装置としても運用すれば、新たに実装する費用を削減できます。その方向に淘汰圧がかかっているのじゃないかなと。
無自覚に人はこの認識の枠組みで世界を理解しようとします。
情報量が七以上になると人は混乱してしまいますが、その認識のフィルターを通してしか人は現実を見れません。
当たり前と受け入れられている枠組みです。しかし、それが正しい保証は誰もしていません。もしも現実の複雑さを人類より上手く捉えられる生命体がいるのなら、その生命体が人類と同じように世界を認識しているとは思えません。アリと人の認識は次元が異なります。同じように人の認識である時間や空間を超えた次元で現実を認識する知性があるかもしれないと僕は思ってしまいます。
閑話休題。
誤謬(詭弁)の発生源
僕は以上に加えてもう一つの知性があると感じています。
それは自立心に基づく知性です。
自立心は目の前の問題を自分の物と認識すること。精神的に自立していない場合は、問題の責任を自分以外に求めようとします。
自分の人生なのだから自分の責任を議論から排除してしまうと矛盾が演繹されてしまいます。だから、精神的に自立していない人の主張は頻繁に誤謬が起こります。感情論による誤謬で構成されているのが陰口です。
そもそも論として、前提に要求される要素が含まれていないのだから結論が誤るのは当然のことです。
例え話をします。
ネットでは国の財政政策に責任を求める主張を頻繁に目にします。しかし、その主張をする彼らの大半は貨幣が必要になるような事業はしていないだろうと予想できます。特にSNSでそれを必死に主張する匿名のアカウントの人たちは。
銀行から金を借りる必要があるのは事業を行う事業主のはずです。被雇用主は給与の増額を雇用主へ要求するか、または転職をすればよいはずです。今は副業を許す企業も沢山あります。
しかし、彼らはそれをすっ飛ばして国の財政制政策に責任を求めます。
転職やストライキなどの交渉をせず、SNSで無責任な自分を擁護する為の主張を繰り返すことに終始します。
仮にも国の未来を憂いているのなら、自らの責任において行動に移すはずです。しかし、それはしない。彼らは責任転嫁の相手をひたすら探しているわけです。
民主主義の脆弱性とも言え、ポピュリストはこの隙を突いて大衆迎合主義的な主張で市民をコントロールします。ギリシャローマから変わらないやり方。
話が大きくなったので、身近なボクシングジムへ話題を移します。
ジム会長やトレーナーの陰口ばかりを言い、行動には移さない無責任ボクサー。
自分の責任を度外視する主張。それは保身という結論は保証できても、自分の人生を推進するという点では破綻しています。
それにすら気が付けないからボロボロと崩れていく。
当人は本気で誰それが悪いと思っている。本気でそれを主張する。しかし、まともな人の目には幼児が駄々をこねているようにしか見えない。バカに見える。
政治や制度を隠れ蓑に自分の責任を隠そうとするから論理的に破綻した主張になってしまう。それに気がついてしまえば矛盾を抱えきれない心は破綻する。だから本能はそれに気が付けないように論理性に蓋をする。
つまり、自分の責任と向き合わない場合はどんどん知能は劣化していくわけです。
自分の失敗や責任を認めない保身は現実の認識を歪めその規則性の理解を妨げます。
現実の規則性がいつまでも理解できないから馬鹿なまま、というわけです。
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