恒偽式は矛盾とも呼ばれ、恒真式の対義語です。
矛盾と否定
矛盾
恒真式(こうしんしき、トートロジー、英: tautology、ギリシャ語のταυτο「同じ」に由来)とは論理学の用語で、「aならば aである (a → a) 」「aである、または、aでない (a ∨ ¬a)」のように、そこに含まれる命題変数の真理値、あるいは解釈に関わらず常に真となる論理式である。
恒に偽になる論理式を恒偽式もしくは矛盾式(英: contradictory well-formed formula)という。変数の値にかかわらず常に偽となる矛盾である。
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「恒に偽となる論理式が矛盾」だと言われても納得感が無いので、その心はを考えます。
俗に言う「矛盾」は相反する2つが同時に起こっているという認識のことだと思います。その矛盾の認識「pかつpではない」を論理式に変換すると
p∧¬p
であり、この論理式の演算結果は恒に偽になります。つまり、抽象的に原因と結果だけを見てこれを一般化すると「恒に偽になる式が矛盾」と定義できるのではないかと思います。
その根底には「論理学は人の認識を一般化した規則による演繹で真理を明らかにできる」という、ある意味では傲慢ともとれる願いがあるのだと思います。
人の認識が世界を理解できるとする哲学が数千年以上も前に発展し得たのは、災害が少なく人知の影響力が自然を凌駕してきた歴史のある、西欧特有の思想なのかな、と最近は思ってます。一神教が日本人的でないと感じたり、善悪二元論で語られたり、言語体系が厳密なのはそんな背景がるのかなと。
妥当性
閑話休題。
否定の導入について考える前に推論の妥当性について復習していきます。
ある論証が、前提が全て真であれば結論も必ず真となるような形になっている時、その論証を妥当(だとう、英: Validity)であるという。より厳密に表現すると、『全ての前提が真である』ことと『結論が偽である』ことが決して両立しない論証を妥当であるという。
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これは妥当な推論の定義であり、論理学の願いです。
前提が真なら結論も真となる推論の方法(人の認識の一般化)により正しく世界を理解できてほしい、という。
僕たちは推論をする時、例えば前から歩いてくる人が知人であることを推論する場面では「知人の記憶(前提、公理)」と照らし合わせて知人であるか否かを判断します。
知人である条件が全て真の場合のみ、その人は「知人である」と結論するはずです。
矛盾が生じるなら「他人の空似」と。
これが推論の妥当性が定義されたの文脈だと考えられます。
人は上の規則「前提が真なら結論も真」以外の認識を知りませんし、論理学は人が創ったものなのので、当然その認識が前提となっています。
この認識を厳密化することで恒真式、恒偽式(矛盾)が出現したのだとするなら、受け入れやすいと僕は感じます。
また、矛盾が出現したことでもう一つの認識が演繹されます。「〜でない、ならば〜でない」とする認識です。
「知人の条件に当てはまらないが真なら、知人ではないも真」という推論。否定を導入すればこの推論も妥当の規則に当てはめられます。
また、どのような解釈によっても前提から矛盾が演繹される場合、つまり「知人の記憶」の構造を、可能性の取りうるあらゆる手段(推論規則)に従い変化させたとしても知人の構造が作れない(知人ではない)場合は矛盾が演繹されることになります。
またこのように前提から矛盾が演繹された場合、前提の命題に否定を加えたものを結論として演繹することが認められています(否定導入)。
「彼は知人である」から矛盾が演繹されるなら「彼は知人ではない」という結論してよい、ということ。これが成立するのは至って普通の人の認識だと思います。
否定導入と除去
この認識を定義するのが¬導入と除去です。既述の文脈から理解すれば特に違和感はないと思います。
P を仮定すると、矛盾 ⊥ が導けることにより、P の否定 ¬P を結論付けることは否定の導入などと呼ばれる[2]。
$\displaystyle {\cfrac {\displaystyle {[P] \atop \bot }}{\neg P}}$
これに対して ¬P を仮定すると矛盾 ⊥ が導けることにより P を結論付けることを狭義の背理法あるいは否定の除去ということがある。$\displaystyle {\cfrac {\displaystyle {[\neg P] \atop \bot }}{P}}$
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人の認識で世界を理解したい、この世界は真と偽の命題により理解できる。
この二つの思想が根底にはあるのだと思います。最先端では現実との接点は気にしてないのでしょうが、原始的な論理学、哲学の出発点はこうだと思います。
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