フローな生とフローな死は人生をより楽しく生きることを肯定する哲学という側面が強く、ボクシングに落とし込むのか難しいかと思います。
しかし、僕がフローな生と死について閃いたのはボクシングの練習中です。楽しく技術を習得したいという欲求が根底にはあります。
今回は楽しみながら上手くなる、フローな技術習得の長濱説をお話します。
上手くなるは結末
過去や未来に執着しない
フローによる技術習得は「限界を超える為に敢えて限界を意識しない」という記事で話したのと同じ論理の技術習得になります。
「上手くなる」ことに執着せず、その瞬間を楽しむ。「これがダメ、あれがダメ」と昨日や理想の自分と今の自分を比較しない。「昨日と違っていてもいい、理想と違っていてもいい」と昨日や理想と異なる自分を肯定し受け入れます。
これが合理的である一つの根拠は、「可能性を練習に組み込める」ことです。同じことの繰返しは刺激に乏しく高確率で脳の省エネモードによる惰性で行われます。発見が起こりません。いつもと違う帰り道、仕事、人間関係、遊びによる刺激が脳が活性化し、新たな発見を促します。経験があるのではないでしょうか。
また、技術空間という仮想空間は現実の物理空間とは異なり不確実性がゴロゴロと転がっている上に非常に見渡しが悪い。技術空間を進むのは暗闇の物理空間を手探りで歩くようなものです。肉体に備えられた加速度センサーもついていないので、成長の速さも向きも掴めません。ゴールへ向かっているのか、袋小路へ向かっているのか、そもそもゴールへたどり着けるのか、ゴールが存在するかすら分かりません。
物理空間に出力されたデータから何となく速度が掴める程度。正しい練習か否かは極端に言ってしまえばすべての結果を見るまでは判断できないんです。だからこそ、あらゆる可能性を肯定し練習することが必要となります。
僕は可能性を取り込むオープニングマインドが結果的に理想を引き寄せる近道なしになると信じています。
移ろいゆく技術を肯定する
「昨日のストレートと違う」
前日いい感じのコツを掴んだらそれを再現したくなります。再現できないと焦りますね。
フローな技術習得はあえて昨日の自分を捨て去り変化を受け入れます。一見して非合理なこの行為にこそ合理が宿ります。
一度コツを掴んだのなら、そのコツは脳に保存されています。今は必要ないだけなので無理に引き出す必要はありません。そのデータは確かに未来のあなたには必要なものです。でも”今”は必要がない。
話は飛びますが、フローな学習を理解してもらうために、子供の学習について話させてもらいます。
お子さんがいる方はご存知と思いますが、子供は全く同じ動作の遊びを延々繰り返します。そして、ある瞬間に突然それに飽きて一切をしなくなります。「やれ」と言えばきっと泣いて拒否します。
遊びながら原理原則を抽出して理解してしまったから、もうそれをやる必要はないのです。やらなくなったことは、それができなくなったことを意味しません。あくまでま探求が終わっただけ。心が新たな探求に向けられているだけなのです。
子供はその飽きてしまった遊びで抽出した規則性を世界へ投影し、新たな、より高次の規則性を発見します。こうやって世界の本質へ迫っていきます。
ニュートンの運動方程式や微積、ダーウィンの自然淘汰説、コペルニクスの地動説の発見がキリスト教的世界観を終わらせ、その後の科学という世界観を発展させたようにです。発見の積み重ねが世界観を創り出し、それが人を新たな世界へ導いてくれます。
フローにはこのような壮大な理念、合理性が隠されているのだと僕は”感じて”います。
話を技術習得に戻します。
僕たち顕在意識(理性、常識)は上記の子供のような学習を理解できません。潜在意識(本能)は既に学び終え、別の探求を始めているに過ぎないのに。
それを否定し理解したことを繰り返させようとするから、潜在意識(欲求)と顕在意識(理性)の間に齟齬が生じ全てを狂わせてしまいます。子供が泣いて拒否するように、潜在意識は拒否します。
昨日の技術が再現できないのなら、それはその技術を失ったのではなく、あなたはその学習を完了しただけです。そのことは受け入れて他の技術を探求すればいい。
そうやってまた新たに発見した技術と既に発見した技術が連鎖反応を起こした時、競技力は飛躍します。同じ技の練度にこだわるより、他の技を探求したほうが合理的なのです。
この価値観がフローな技術習得です。
また理想や過去に執着しない練習はとても快適で高い運動の強度を実現できます。執着しないことが多くを引き寄せてくれる力学が存在します。
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