真のありのままを目指して「自分の表現」したいことはなんだろう、どんなボクシングが好きなのだろうと自分に問いかけてきたのですが、それは無駄なことだと悟り始めました。ありのままを目指すこともまた執着です。
動き続ける心を追う徒労
常に揺れ動く自分の本質(心)を捉えるなんてことは論理的に不可能な行為です。
心を認識しようとする意思がそれに作用し、ありのままを変質させます。変質し揺らいだ心を認識することもまた、心に作用し別の心を作り出してしまいます。
水の温度を測るためにビーカーへ温度計を差し込むと、その行為が影響し元々のビーカーの水温が変化してしまうのと似ています。ビーカーが小さければ小さいほど、心の無駄を削げば削ぐほど、計測による変化が起こりやすくなります。
永遠に終わることのない鬼ごっこ。自身の認識すらも放棄した無我の境地。移ろいゆく心を眺めることが悟りなのかも。これは難しい。
きっと足跡を振り返って「こんな人間だったな」と受け入れることでしか自分を認識できないのだろうなと。これこそ究極のフロー。
死ぬ直前になってようやく自分自身を認識だきるなんて我ながらロマンチックな結論です。長濱拳法の理念に立ち返りました。眼前で起ることにフローで対応する。その連続が僕の使命を定義する。
あんなに弱かったのに、まあまあ頑張ったなあ。ああ、そして使命もあったようだ…ポクリ
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