娘と会う時間は普段会えない分だけ濃厚で、なかなか会えないからこそ親として僕が娘にしてあげられることは何かと考えます。
考えた末導いた僕が親としてできる最初の仕事は、遊びを通じて僕の価値観(生き方)を彼女へ伝えること。
次にこの世界には宗教などを土壌に様々な価値観(生き方)があることを体験させること。
最後に娘に自身の生き方を決めてもらったら僕の仕事は完了です。
これは変わるのかもしれませんが、現時点ではこの指針に従おうと決意しました。
アイデンティティの形成が子供の仕事
アイデンティティ = 自我同一性
少し難しい概念なので一言で表そうとすると語弊があるかもしれませんが、アイデンティティとは自分が何者なのかを知っている心の状態のことです。
もっと簡単になら「何が好きで何が嫌いか」と言えるかもしれません。
食べ物などの好き嫌いであれば大半の方は認識できているだろうと思いますが、どんな生き方が好きで嫌いか?となればなかなか答えられないのではないでしょうか。
大人になるとは「生き方を決める」ことだと僕は解釈しています。
自分の生き方を決められていないなら、体は大きくとも子供です。
現代社会で教育と呼ばれる行為は、社会を成り立たせる倫理観や個人のアイデンティティを育むことではなく、経済的合理の名のもとに人を工場の部品へと成り下がらせるための価値観を、子供の内に叩き込むことです。社会に住む個人が自らの価値観(アイデンティティ)を認識できず、子供のまま年をとります。体の大きな子供が溢れた大衆社会は歴史的に暴力を好み、悲しい結末を生んできました。
マルクス、ニーチェ、オルテガ、リースマンが予言した資本主義社会の末期へ向かっているように思います。
僕なりの解釈ですが、ニーチェの言う「末人」、ガセットの言う「大衆」は価値観(個人的合理性 = 生き方)が形成されないまま、大人になった人のことで、「超人」と「貴族」は心理学者のエリクソンが提唱した「モラトリアム」に自らの合理性を構築できた人達を指しています。
モラトリアムにアイデンティティ(生き方)を確立できなかった個人は、大衆に迎合することで一時の安い安心を買います。また平和や平等、人権が無条件に与えられた自然な権利だと錯覚し、義務を放棄、権利のみを子供のように要求します。彼らは他者から何かを奪うことしか考えません。まさに仏教哲学の言う「子供(餓鬼)」の定義であり、ニーチェやガセットが「末人」「大衆」と罵った人間たちです。
そうならないために求められるのは生き方 = 価値観だと僕は思うのです。
何が好きで、どうやって生きていきたいのか。
誰かから何かを奪うことに腐心する「餓鬼」のまま年を取るのか。他者に何を与えられるかを考える「大人(ダーナ)」になるのか。
僕が目指す教育は、何に金と時間を使うのか?という結論を娘が自身の力で導くのを助けること。
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