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偶有性
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上の記事でも説明していますが、「偶有性」は難しいか馴染みのない概念だと思います。
偶有性
アリストテレスの用語で、endekomenonの訳語。 存在することもしないこともありうるものの在り方をいう。
僕の解釈で偶有性は、ある行為や言葉の論理的な意味の外側に偶然生じる性質や意味を指す言葉です。
論理学だと含意や論理包含、ないしは単に包含と呼ばれるものと抽象的には同じ概念(規則)だと思います。
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「学校へ行く」という言葉には、それに付随する様々な意味があります。
「勉強をする」「友達を作る」「家の外の大人と接する」など。
むしろ「学校へ行く」を物理的な運動を指して使う人は見たことがありません。文そのもの以外の意味が含意されています。
お母さんの「学校へ行きなさい」には、その行為が導く、言わば偶然によって包含される様々な行為が暗黙的に意味されています。
「時間がない(無い)」というお母さんは、物理的な量「時間」の存在性の議論をしたいのではなく、「着替えなさい」「歯を磨きなさい」などの、その時々に応じた意味を偶有(含意)させているはずです。
頑なに前者の意味で理解しようとするなら病院へ連れて行かれるか、学者になるんじゃないかなと。
数学者や論理学者はこの手の言語や概念の厳密性を重んじる人種に見えます。彼らには抽象的な認識空間を物理空間と同じように感じられる共感覚があるように見えます。
共感覚は音が色に見えるような能力。
認識空間の論理構造を触って感じられるような能力だと思います。
曖昧さに違和感を覚えられる感覚を神から与えられているのでしょう。
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頭の中の構造で積み木遊び。時々社会的に意味のある構造が生まれる。
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閑話休題。
同じように、「動きながら殴る」という制約には、「手打ち」「股関節主導フットワーク」などの技術的な前提が偶有(包含)されています。
そのような論理的な構造を考え、設計するのがトレナーの仕事である、と現時点は結論しています。
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僕が偶有性を重視するのは、ボクサーを無意識の発見へ導くか、ないしは練習の意図を掴ませない為です。
例えばボクサーが「手打ち」に執着すると、他がめちゃくちゃになり全体として成立(縁起)しなくなります。すなわち、手打ちができなくなります。
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より分かりやすい例でなら、「カウンターを狙う」と頭に思い浮かべると、心と体の働きが停止してカウンターはむしろできなくなります。
僕は、ボクサーに「カウンターする」と意識させることに、どれほど練習としての価値があるのかを疑問に感じています。本末転倒なのではないかと。
従って、子供がそうであるように、「気がついたらできていた」と自然体で技術を習得できるような構造を練習に与えます。
1.ボクサーの動きから技術的な脆弱性を分析
2.どのような練習が必要か推理
3.意図した技術が自然発生する論理を考える
3が今回の偶有性の話です。意図したことがが”偶然”起こるような練習の構造を作ります。この辺がトレーナーは腕の見せどころではないかなと。
比較
「普段と異なることをさせる」
これは比較により、スタイルや技術の意味と価値を”心で”理解させる為です。
“頭”で理解するのと心で理解するのは異なります。数学を記号として頭で理解するのと、論理的思考として心で感じられれるのとは異なります。後者は常に論理的に取捨選択ができるでしょうが、後者は感情と理性の間で常にパニックになる予想できます。
記号として「アウトボクシング」「インファイティング」を知っているのと心でそれを感じられるのには大きな差があリます。むしろ別の”行為”です。
記号を沢山知っているだけの車オタク(ボクオタ)をレース(殴り合い)に出すとボコボコにやられるようなこと。
あえて普段と異なることをさせる理由その一。頭でっかちのバカにさせない為。
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その二。技術の価値や自分自身を認識させる。
普段と同じ通学路には発見はありません。寄り道することが偶然、近道(発見)を引き寄せてきます。
普段は行かないようなバーへふらっと立ち寄ると素敵な女性と出会った。
神に導かれた奇跡のように感じられますが、論理的に考えるならば、これは必然であると捉えられます。
普段は行かない場所だからこそ、普段は出会えない人がそこにはいます。
もしかすると、あなたが今いる世界にいる人達があなたを歓迎してくれないだけで、他の世界では大歓迎されるのかもしれません。
今の会社か、あるいは部署があなたの能力を過小評価しているだけで、別の場所なら大歓迎されるかもしれませんよ。
上の練習は、あえてボクサーを快適な空間から連れだし、自分は何が好きで、どんな技術に歓迎されているのか、を認知させることを目的としています。
素敵な女性との出会い≒技術的発見
が起こる論理的な構造を作ってしまうわけです。恋人ができない、あるいは上手くならないのは、日常や練習が同じことの繰り返しとなり、可能性から論理的に閉ざされているから。
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