
ボクシングとは
上のロマの記事で「ディフェンスは隠れる」と主張しました。
パンチを目視で回避することが生理的に不可能である事実と、僕が一流に感じる規則性から帰納的に考えるなら、恐らくは「”反射的に”危険な空間から隠れるのがディフェンスだろう」と結論しました。
また、この場合の「隠れる」を、ヒトが危険から身を守ろうとする時に現れる自然な動作だと仮定します。
その根拠は、ロマやカネロのディフェンスは、例えば自動車が突っ込んで来た時のような、あるいはバットを振り回す狂人に遭遇した時のような、自然な反射を抽象した場合に得られる動きと同じだと僕が感じるから。すなわち、危険だと予想される空間から身を隠そうとすることがディフェンスである、ということです。





以上の推理は上のメイウェザーやアリ、ベントン、グスマンから感じられ特徴とも整合的に見えます。
従ってディフェンス動作は、反射的に起こっているだろう、と言い換えられます。
以上の、「ディフェンス→危険な空間から反射的に隠れる」の推理は「遺伝的にか経験的に蓄積された情報を元に演繹的に出現すのがボクシングである」と抽象できると思います。
すなわち、ボクシングは作るものはなく引き出すものある、と言い換えられます。
作るのではなく、ボクサーの中に既にある全体像の細部を削りコンパクト化するのがボクシングです。


本能的な動きを引き出して得られるのがボクシングであるとの仮定は、上のフォアマンやジョーンズの自然さ、ないしは「ぎこちなさ」とも整合的だと僕は感じます。
つまり、歴史的に見て、圧倒的な成果を上げた上のボクサー達の動きは、初めて殴り合いをしたボクサーの自然さにも見えないか、と。
以上の推理から、ギクシャクとしたぎこちなさは、反応的な自然な動き、すなわち生かすべき特性である、と言えるのではないか、と僕は感じるわけです。
ギクシャクしている⇒大多数と違う⇒恥ずかしい
「大多数と同じだから安心(僕以外の誰かがなんとかして!)」って承認欲≒幼児性が真理を破壊してんじゃね?




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