どうしてヒトは今の形になったのか、ボクシングはどうして今の形になったのか、何故大型の二足歩行の哺乳類はヒトだけなのか、二足歩行とは何なのか、二足で立つとは何なのか、何故子供にはスポーツと手遊びをさせるべきなのか、何故歩きスマホしてしまうのか、ヒトの知性とは何なのか、ヒトはこの先どこへ向かうのか、ヒトが魂と呼ぶものは何なのか、この世界がヒトに与えた役割は何なのか、などなど挙げればきりがないほど、僕のヒトに関する疑問は尽きません。
上の本では、ヒトが二足歩行へ移行し体毛を失い、知能を獲得する過程が生き生きと現実感の伴う描写でされています。
投擲や道具の使用など、ヒトに与えられた能力と習性の原因を追跡すると、そのほとんどが二足歩行へと行き着くのだと分かります。
初の二足歩行人「おお…遠くまで見渡せるぞ…。不思議とどれだけ歩いても涼しいし疲れない…。木の実でも持って少し遠出してみるか…」
二足歩行はエネルギー効率を劇的に向上させ、「少し遠くまで歩いてみよう」という動機を生みだしました。ヒトが地球上の殆どの場所に生息しているのは、二足歩行により遠くまで歩く能力を獲得したから。それは後の好奇心や勇気、忍耐などど呼ばれる、ヒトが持つ偉大な性質の土台となっただろうことを容易に推理させます。
二足歩行がヒトに未知の理想郷を空想させ、「どこまでも行ってやるぞ」、という不屈の闘志を与えたと捉えると面白いです。
また、知性の捉え方にも一つの示唆を与えてくれました。
ヒトは道具を操ります。チンパンジーやオランウータンにもできるようですが、ヒトと比較するなら雲泥の差があります。
思うに、これがヒトと他の動物との間にある明確な差です。一言で言うなら道具化が知性。
学歴や知能指数の数値にではなく、身近なスマホやお金の使い方にこそ、その人の本質的な知性が現れると言い換えられます。知識や遺伝的な能力、言葉などもそう。
神から与えられた能力を誇るのではなく、それをどう使うのかを誇るべきだということ。
知能指数が低いことを前向きに捉え、それを利用して本を出版し、同じような悩みを抱えている人を勇気づけ、かつ自分の生活を楽にしているのだとすれば、それは賢いこと。
神から与えれた能力はどうすることもできません。だとすれば、考えるべきはそれをどう受け入れて有益に利用するのかです。神はそれを見てくれていると僕は信じます。
他人と比較して劣った気になり自分の人生を悲観する、あるいは得意になり何かした気になる、道具を活用する態度が知性だとするなら、どちらもバカ。
ボクシングが苦手なら、それをどう用いれば自分を有利な立場にできるのか、を考えるべきなのかもしれません。
計算や計画が苦手なことがバカなのではなく、その能力を上手く生かせないことがバカです。それが苦手だからこそ、それが得意な人が躊躇するようなリスクに果敢に挑戦できるかもしれません。
逆に、いくら計算が得意たとしても、「俺は計算が得意だ」と自慢するだけなら、「口だけ」と人から嫌われます。
以上が大先輩から僕が学んだ知性の正体です。
猿から分岐した初期の大先輩の生き方からは学ぶべきことは多いと感じました。
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