パンチと攻撃と防御
相手の反撃に対応できることを前提にパンチすると、本能による自動システムはその為の体のバランスを保ちます。
バランスが崩れないのでブレーキ効果による体幹と腕の運動量の交換が効率化し拳の加速度が高まります。「打たせないぞ」と強く思うことです。一流のピクピクした感じを真似してみてください。
股関節と肩甲骨周りの筋力が弱い場合は骨格で体と腕の勢いを制止することが難しくなります。例えば膝が曲がり、脚がつっかえ棒の役割を果たさなくなるなど。この場合は股関節ロックの筋トレを勧めます。
骨で床を踏んだ場合は骨と筋肉の構造が合理化され、体がピンポン玉のように弾むので相手の攻撃に対して即座に対応できます。
すなわち、攻撃を強める前提が素早い防御を引き起こしているということ。また、その素早い防御は反撃可能な時間を導きます。さらに、素早い反撃は防御の時間を導いて…と自己強化循環を起こします。
一方で強い攻撃の前提を持っていない場合は、バランスを崩しブレーキ効果が起こらない上に崩れたバランスを立て直すのに手間取り、相手の反撃を許してしまい防御へ移れません。加えて相手は反撃されないから伸び伸び攻撃してきます。それがさらに防御を難しくして…の負の自己強化循環。
自己強化循環
以上が同じ体重のボクサーに圧倒的な競技力の差を生み出している論理なのではないかなと。
金持ちは体力時間金などの資本を様々な資産へ分散し、それに比例した可能性を取り込めます。金が金を呼ぶ自己強化循環です。
資産価値は時間と共に変動するので、常に何かしらの資産価値が高まります。
株が値下がりすると債券が値上がりし、債券が値下がりすると商品が値上がりし、商品が値下がりすると株価が値上がりし…、という風なことが所有する資産の中で起こります。
つまり、資産の相関関係を理解する資本家は、常に何かしらの資産が値上がりするようなポートフォリオを構築し資産を増加させる可能性を取り込めるわけです。
余裕があるので、値下がりした資産を慌てて売り、損失を確定させる必要に迫られる確率が小さく戦略通りに売買を行うことでリスクを許容可能な範囲まで引き下げ、リターンを最大化します。仮に読みが外れてもトライアル&エラーが知識を蓄積させます。
運用が得意な人に金を払って任せてしまい、自分の得意な商売に集中する選択もできます。
つまり、金が金を呼ぶ正の自己強化循環です。
一方で貧乏人は体力金時間などの投下可能な資本が小さい故にリスクやリターンの機会を分散できません。金持ちと比較すると取りうる可能性が乏しく機会から閉ざされます。
資産を増やすための学習に金と時間を費やせないので、戦略は立てられません。だから無知故の過大はリスクを背負うギャンブル的なやり方か、あるいはその日の労働力を売ってその日の生活費をまかうのが精々となりす。
ネットワークが閉じているからさらにそれが閉じてしまう、金持ちとは逆の負の自己強化循環が起こります。
この手の自己強化循環は至る所に見られます。
何かをとことん探求して導いた規則性は、抽象することで分野を越えて適用可能です。
ボクシングにより発見した心理や戦略、論理の規則性が異なる世界を上手に説明してくれるようなこと。
これが所謂”connecting the dots”や「啓示」「悟り」だと考えられます。現実に起こる現象には一定の規則性があるので、脳の自動推論(フロー)は人生の点と点を勝手につなげて物語を創造します。
脳内に遍在していた情報が一本のニューロンとして統合され、それに電気が走った感覚が悟り、啓示と表現されたのだと思います。
電撃が貫く強烈な刺激かつ生理的には全自動で行われるニューロンの接続なので、「結論を神が告げた」という錯覚が起こります。説明不能な直感が「神」として知覚されるのではないかなと。ジャンヌ・ダルクや卑弥呼、イエス、ブッダ系のシャーマンや実力の伴う沖縄のユタや霊媒師は、この類だと思います。星や群衆心理、季節の規則性を敏感に読み取り他の概念と連結させて未来を予測するのが上手な人達。
統合失調症などの精神疾患は、健常者には無関係に見える概念や人の表情、場の雰囲気などを既知の概念と無理やり連結してしまうのじゃないかなと。それが幻覚です。
健常者であっても数や貨幣や常識、国家や日本人という概念(≒幻覚)を実在するものと錯覚していますよね。この延長線上にあるのが魂や意識と呼ばれる幻覚じゃないかなと。強弱はあれど誰しもが持っているヒトとしての性質だと思います。
緩和休題。
前の事象を参照して次の事象が導かれる自己強化、自己増殖循環は、広く一般化できると思われます。例えば核分裂や台風、株価、群衆心理、自我の形成などなど。
言葉
話しが壮大になりましたのでその規模を縮小させます。
僕は僕の技術や認識を言葉にすることが好きです。考えられる範囲で言葉に変換しています。所謂言語化。
言語化の能力は、捉えどころのない現象を制止させて部分として切り取り、人が理解可能な大きさと形状に分解する、という意味ではとても有益な行為です。
目の前に聳え立つ壁があると想像してください。あまりにも大きいか複雑な構造である場合、それはヒトの認識には映りません。目の前にそびえる壁が山なのかビルなのか、はたまた怪獣なのか仏像なのかは全体を見なければ分かりませんよね。
それは物理的な構造に限らず、論理的な構造においてもそうです。
所謂言語化は、現象などの論理構造をヒトが認識可能な大きさや形状に切り出すことだと解釈できます。
ボクシングという現象からジャブ、フックという構造を切り出してみたり。経済から貨幣量やインフレ率を切り出してみたり。自然数から偶数を切り出してみたり。
認識不可能な論理構造を認識可能な大きさと形状に分解し理解しようとするとこは、何かを発展させるには必要不可欠なことです。世間一般にも重要視されている能力だと感じます。
しかし、万能に見える言語化も、視点を変えてみれば異なる性質の形状が現れます
言語化の罠
現代は経済という現象をインフレ率という形に切り取って認識します。それ全体は複雑かつ巨大過ぎるので、最先端の天才達ですら、その正体を掴めていません。
群衆心理が経済を形成し、且つ経済が群衆心理を醸成する側面があります。デフレ経済が日本人の心を作り、その心が経済を作る自己強化循環と言えば分かりやすいと思います。
群衆「景気が悪いから節約だ。」
これが景気を悪くします。逆もしかり。なので、それを完璧に説明することはかなり難しいか不可能だと感じます。説明した瞬間にそれは経済に組み込まれます。
共産主義という理想が市民を堕落させ、それを破壊したのと同じ論理。
経済や豊かさが見えるようになって社会主義が機能しなくなった日本はその典型例なのではないかと。
これが言語化(≒認識)の罠です。現象を認識すると人はそれに干渉し、その機能を失わせます。
ボクシングもそうです。全体の流れ(≒フロー)として成立するものを、ジャブやガードなどを部分として切り取り言語化してしまうからボクサーのボクシングは消失します。
冒頭の自己強化循環によるディフェンスやオフェンスの説明のように、ボクシングは部分ではなく全体として成立しています。
ディフェンスを上達させたいなら、ディフェンスだけを切り取るのではなく、ボクシングを全体として認識する必要があります。仮に部分として認識してしまうと、既述の例のように、ネットワーク上に縁起として発生しているボクシングを制止させ、その機能を失わせてしまいます。
川は水の流れを言います。動きのない水たまりではありません。交通や経済、あなたの心や思考そう。流れの中に縁起として成立しています。言葉で固定化して部分として切り取るから、その機能が失われるのです。
言語化はある側面からは現実を理解する大きな助けとなりますが、それは、言語化ど呼ばれる行為が持つ、ある一面でしかないことを理解する必要があります。
ヒトは物理的な三次元空間を二次元で捉え、脳内で三次元へ変換し直して知覚しています。
正面から見れば立派に見える建物であっても、視点を変えてその反面や内部を観察しなければ、その真の構造と価値は判断できません。
ボクシングを分離静止させたままに構築しようとすることはボクサーのボクシングを破壊してしまいます。
ボクシングに限らず、ヒトの思考や心などは流れの中にあり、全体として一つのシステムです。
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