後ろ走り
上の動画はアリが後ろへ歩いている、あるいは走っているのが分かりやすいと思います。
メイウェザーやウィテカーも頻繁に走って逃げます。
彼らの練習を観察して思うに、走りながらや歩きながら手を動かす練習は重要度が高いのです。
鏡の前で、止まったままフォームを確認する練習は僕としては論外。それはロボットか奴隷の仕事。
※自分がかっこいいかどうかを確認するのは大切なことです。自己陶酔の為なら鏡は見るべき。自惚れは努力を引き寄せるから。
彼らのスタイルが似通っているのは、きっと彼らが同じような価値観を共有しているから。そして、それが同じようなスタイルを導いてきた。僕はそう考えます。
意識下に顕在化しているか否かに関わらず、です。だから生き残った。だから映像として保存された。
動きながら観察、ディフェンス、パンチ。
体の連動性や脳の没頭を引き出す訓練になっているのかもしれません。
鏡の前で形を整える練習よりは、アリのように歩きながら、または走りながらパンチする訓練の方が効率的だと結論しています。
あらゆる姿勢から強く速いパンチが打てる技術的精神的臨機応変さが身につきます。そして「俺は何が起こっても対応できる」という認識は自信を引き寄せます。
また、様々なことに挑戦することこそが、苦手なことと得意なことを認知させます。
鏡の前でやるような姿勢でパンチが打てることは実戦ではほとんどありません。また、同じ姿勢や立ち位置から決まったことを繰り返すと相手は慣れます。
何よりも、比較の認識が起こらないので、自分と相手は何が苦手で得意なのか、そして何をすべきなのかが認識できません。
アリの本質は臨機応変さと距離やタイミングの読みづらさだと考えます。アリの技術そのものではないことに注意してください。
技術の実体
アリの技術の本質は、起こるべくして起こっていることをそのまま受け入れることだと考えています。
この論理で言えば、「アリのようなフットワークをしよう」と考えることは、本質的にはアリの技術から遠ざかる行為です。
矛盾するようですが、アリのようにしないことがアリのような技術を導いてくるわけです。
それはあなたの表面に現れる現象としてなら、アリのとは異なるかもしれません。しかし、実体はアリと同一なものです。
この主張は抽象的な認識論の範疇になるので、この手の議論に慣れていないと意味不明だと思います。ただ、頭の中に置いておくと、何かの拍子に理解できることがあります。僕がそうでした。
所謂「ボクシングの上手さ」を求めることがボクシングの上手さを遠ざけてしまうこと。極論すれば技術論は価値のないガラクタであること。
「在るのなら在る、無いのなら無い」「できるのならできる、できないのならできない」これを心で理解することがボクシングの本質。そして、それが最も難しいこと。
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