人類史的にはつい昨日の社会から現代社会を眺め、その欠点と利点を明らかにしよう、という内容。
テクノロジーが発展し、環境は激変しましたが、ヒトの遺伝子は森で狩猟採集生活をしていた頃に適応したままほとんど変化していません。
ダイアモンド博士は、パプアニューギニアに残された伝統的な社会を研究し、彼らの”自然な”生き方から学んだ多くのことを僕達に共有してくれます。
僕は、パプアニューギニア人の生活と比較して、「現代日本人は自分とは無関係なことにばかり関心を払っている」と感じました。
「隣人のことは知らないが、ユーチューバーについては詳しく知っている。」
「友達や恋人、家族を喜ばせる方法を本やネットで調べる」
「子に何を伝えるべきかをネットに聞く」
これらは社会的な必然としてそうなっている面はあります。しかし、それを社会に住む個々人が知るのと知らないのとでは、すなわち社会で共有されている空想を、そうだと認知するのとしないのとでは、大きな差があるだろうと予想できます。
上記のような例には枚挙に暇がない。
目の前にいるその人がどう感じているのかや、自分がその人にどうしてあげたいのか、という文脈(意思)は抜け落ち、自分とは無関係な他人の意見に行動が左右されてしまうこと。
パプアニューギニア人は自分の周囲のことにだけ関心を払います。
今日あった面白いこと、誰それが怪我病気だ、どこそこは危ないという内容が会話の中心となります。
そして、その話をみんなで真剣に聞きます。真剣に聞いておかないと明日は我が身だから。
今日明日を生き抜かなければならない緊張感が、自分とその身近にいる人への関心を払わせている、と言え、それは、現代人は危機感がない故に自分に関心が持てない、と言い換えられます。
明日、生活が破綻するかもしれないという危機感を持つなら、遠くの何処かにいる有名人が何をしているのか、よりも隣人との関係に関心を払うはずです。
いつしか当たり前となった、人類史的にはおかしな行為です。
自分とは無関係な他人の人生を覗き、その行為を批評したり、非難したり。
一度きりの貴重な人生の時間を、他人の非難や批評に費やすなんてのは馬鹿げています。
ダイアモンド博士の本に限りませんが、人類学の本は僕達が空想の世界を現実と錯覚して生きていることを教えてくれます。
未開の部族の持つ、奇妙奇天烈な風習の発生過程を抽象するなら、それは僕達の社会においても当たり前に起こることだと理解できます。
すなわち、僕達の社会の当たり前は、未開の部族のそれと何ら変わりはないパラノイアである可能性もあるのです。
無関係の他人に関心を払いたくなることがパラノイアであることに気が付かないようなこと。僕達がパプアニューギニア人の風俗に疑問を感じる程度には奇妙なのだろうと予想します。
また、ついこの間までの日本には、階級というパラノイアとそれに付随した奇妙な文化がありました。例)ちょんまげ、切腹
ほとんどの社会問題はこれだろうとすら僕は感じます。ただの空想をそうだと認められない大人が多すぎる。そして、そのパラノイアに属しない無関係の他人を何故か攻撃して良いと思っている。
「こうあるべき」という空想の檻に自ら入り、「苦しい苦しい」と悶えるバカ。最悪は無関係の他人や子供にも自らの檻へ入るように強要する。
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