ぎこちない動きはスポーツでは否定されがちですが、果たしてそれはそうしてよいものか?
との僕は疑念を抱いています。
所謂「カッコいい動き」「キレイな動き」として共有され歓迎されている動きは、ヒト本来の動きではないのかもしれないとの疑念を抱いています。
黄色人で初めて100m走で10秒を切った蘇炳添の走りを見てください。
その下のサッカー界でメッシとトップ争いをしたクリスチャーノ・ロナウド、そのロナウドを含めてもサッカー界で最速と言われたアリエン・ロッベン。
彼らは手を下方で小刻みに振る動作の、所謂「女の子走り」です。
蘇炳添
https://youtube.com/shorts/vD1lgj0l2_c?si=ox2S3cXc0VNTgUwa
クリスチャーノ・ロナウド
https://youtube.com/shorts/oNLwtfZyeUo?feature=share
アリエン・ロッベン
フォアマン、ジョーンズ、マイダナのぎこちなさはみなさんも感じるだろうと思います。
しかし、歴史的な選手達です。
コンスタンチン・チューにも同系統のぎこちなさがあります。
サッカーやボクシングの超人の動きの類似は肩甲骨ロックで説明できると思います。
意識的にそれを維持したまま運動しているのか、それとも生理的にそうなるのかは不明です。恐らくは後者だろうと思いますが。
彼らのぎこちなさは前鋸筋小胸筋の強靭さから導かれていると僕は考えています。
仮にそれらがぎこちなさを導いているのなら、「キレイ」と「ぎこちない」なら、後者の方に大きなポテンシャルがあることになります。
それは、ボクシングで共有されたいる所謂「キレイなボクシング=良いこと」という常識が、天才の能力を奪っている可能性を考える要求でもあります。
僕が「弱者の認識」と呼ぶものにボクシングが支配されている可能性です。
集団内で最合理な解を導く能力がある外れ値が導く解は、それを理解できる層がほとんど存在しないことから、大衆化に相当な時間を要します。
今ではスマホは当たり前ですが、i-phoneのはっぴの当時は疑念が向けられていました。ダーウィンの種の起源も発表直後は反発がありました。
人の認識の中央値な動きは理解が容易かつ実践しやすいのですぐに普及します。これが所謂「キレイなボクシング」弱者の認識です。
一方で強者の最合理な思想や動きは凡人には理解も実践も不可能である為に普及しません。
人の社会はその構造上に、一面的にではありますが、非合理を保存し合理を排除する論理が存在しています。
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